■ レインタクト 第4幕<1>
水瀬 拓未様


 校内閉鎖まであと30分ということを知らせるチャイムが聞こえてきたとき、図書室に戻ってきた芹菜の隣にいた彼女を見て、咲紀は混乱という状態を身をもって味わった。
 だってそこに、いるはずのない少女がいたから。
「…美優ちゃん…?」
 咲紀がまさに呆然と、目の前に立っている少女を見つめる。その視線の先に立っている彼女は、妹の名前で呼ばれることに少し驚きながらも会釈した。
「違うよ。…はい、鞄」
 芹菜はそう言って、驚きの渦中にある咲紀に強めの力で鞄を手渡す。図書室にくるまでは結花に対する感情で一杯だった芹菜も、友人のあっけにとられた顔を見ているうちに毒気を抜かれてしまったらしい。
「え、あ、でも…え? じゃあその…」
 一人わけがわからない咲紀が動転していると、申し訳なさそうに美夜が頭をさげた。
「あの…中等部三年の白石美夜といいます」
「美優のお姉さんだよ」
 自己紹介した美夜に芹菜が言葉を続ける。
「え? どういうこと? 美優ちゃんのお姉さんはだって芹菜でしょ?」
 両手で受け取った鞄を胸の前で持った咲紀は、芹菜と美夜を交互に見比べて呟く。芹菜はそんな咲紀に、彼女が養女だった美優の双子の姉であることを簡単に説明した。
「ふぇー…本当そっくり…」
 先ほどから何度もそれを繰り返してきたせいか、咲紀は驚くということに慣れてしまったらしい。芹菜から話を聞き終えた彼女は、美夜の顔をまじまじと見つめながら奇妙な溜め息をついた。
「こらこら、そんなにまじまじ見たら失礼でしょ」
「あ、うん。そだね、ごめん」
 美夜の顔をじぃっと見つめる咲紀の頭を、芹菜がちょいとつつく。
「でもなんでその美夜ちゃんが一緒にいるの? 芹菜、教室に鞄とりにいってきたんじゃなかったっけ?」
 自分の鞄をゆさゆさ揺らして示しながら、咲紀が問い掛けた。芹菜はその質問で忘れていたさっきの光景を思い出す。
 夕暮れの教室。重なる二つの影と、振り向いた二つの顔。その視線に見つめられ、そこで意識が弾けそうになった。理性が思い切りブレーキを踏んだ。それでも止まらずに突き抜けていった何かが形となって、結花の頬を叩いた。
 手のひらに、まだ結花の頬を叩いた感触が残っている。芹菜がその手をこれ以上ないほどきつく握り締めると、その制服の袖を、美夜がきゅっと引っ張った。
「偶然廊下で会って…ね。それで、咲紀をその…驚かせようかと思って」
 呟いた瞬間、芹菜は目を伏せた。


 あたしは咲紀と親友でいたいよ。何でも隠さずに話せる。咲紀には、そんなポジションで笑っててほしいの。


 嘘つき。
 自分の口から出た言葉をなぞるように、心の中で響いた言葉。ついさっき、この図書室で自分は目の前の彼女になんと言った? 何でも隠さずに話せる。そう言ったはずなのに。
 その言葉の余韻がまだ残っている唇で、それを覆すことをしている。
 美夜はそれを知らない。知らないから、これ以上気を遣わせまいとして、言いかけた芹菜の袖を引いた。
 違う。美夜のせいじゃない。美夜のせいじゃないのに、咲紀に嘘をついた瞬間、横切った彼女の顔が、芹菜の脳裏から離れない。
 目を伏せてから、一瞬の間。
「…そなんだ。うん、驚いたよ」
 だから咲紀は笑った。それを誰より早く感じたからこそ、彼女はそんな芹菜に笑顔を向けた。
「…ごめん」
 咲紀の言葉の意味に気づき、芹菜はそう呟いて顔をあげる。咲紀に気づかれないように、前髪をかきあげるようにして滲んだ目元をこすった芹菜。それを間近で見ていた美夜が唇をきゅっと噛んだのを、芹菜と咲紀は知らない。
 ぎこちない感覚をそこに残したまま図書室を後にした三人は、中等部と高等部で昇降口が分かれている為、一旦別れた。咲紀はずっとうつむいている芹菜になにか声をかけようとしたけれど、結局なにも言葉を思いつくことができず、履き替えるために落とした革靴の乾いた音だけが人気ない校舎に響いた。
 昇降口を出ると、夕暮れに影が伸びる。その影をたどるように咲紀が視線を正門へ向けると、そこにさっきの少女が立っていた。それを見た咲紀は、思わず立ち止まった。
 顔が似ている。それは双子だからと納得していた。そう、驚きばかりが目の前に広がっていて、何も見えないまま、芹菜の不安げな顔を見てそれを忘れそうになっていた。唯一芹菜に愛されていた美優。先刻紹介されたばかりの彼女が、その双子の姉だったなんて、今まで思考の片隅にすら思い浮かばなかった。でも遠く離れた場所から見た美夜は美優にしか見えなくて、咲紀は眩暈すら感じた。容姿どうこうではなく、その雰囲気や周囲の空気に染み込んでいく存在感。それは、咲紀の知っている美優そのもの。
 鳥肌が立った。突然現れた彼女は、いったいなんなんだろう。驚きから開放されてそれを認めた咲紀の脳裏は、畏怖すら感じている。
 そもそも芹菜が美優に双子の実姉がいると知って、驚かないはずがない。だというのに、さっきの二人の雰囲気は廊下ですれ違ったから知り合ったという感じではなかった。むしろ、その間になにか特別な感情らしきものさえ見え隠れしていた気がする。
 いつから美夜のことを芹菜は知っていたんだろう。美優の姉、しかも双子だという彼女の存在を知ったとき、芹菜はどう思ったのか。
 美夜に美優の面影を重ねたんだろうか。それとも。
 不意に、咲紀の口の中に甘酸っぱい記憶が蘇る。それは昨日の昼に飲んだレモンティー。へこんでいた缶と、髪に指を絡ませる芹菜の横顔。
「あ…」
 足元に伸びる影に気がついた美夜が、声を漏らしてこちらに顔を向けた。視線が影の主である咲紀から、その後ろ、やや遅れてやってきた芹菜に滑る。顔をあげたそこに美夜の姿を見つけた芹菜が、咲紀には少し笑ったように見えた。
「待っててくれたんだ」
 早足で咲紀の隣に追いつき、並んで正門までやってきた芹菜が声をかける。
「あ、はい。でも家は寮と反対方向だから、一緒には帰れませんけど」
「なら、あたしとたぶん同じだよ」
 答えた美夜の声に、咲紀が呟く。
「途中まで一緒に帰ろうか? 美夜ちゃん」
「あ、はい」
 咲紀に誘われて頷く美夜。
「そっか、じゃあまた明日だね」
 並んで立つ咲紀と美夜の二人にそう声をかけて、芹菜は鞄を持ち直した。
「うん、じゃあね」
「はい、あの…また明日」
 会釈よりも深い角度で美夜が頭を下げる。芹菜は顔をあげた美夜と、そして咲紀に分かるように手を振りながら、寮へと歩き始めた。
 二人がだんだんと小さくなる。何事か会話を交わしている咲紀と美夜から視線を前へと戻した芹菜は、さっきまで振っていた手を見つめた。
 そういえば結花をぶったの、初めてだったな…。
 結花と寮で相部屋になって一年間過ごしてきた。その間、結花と喧嘩がなかったわけではない。真奈美の一件のようなことは一度や二度ではなかったし、他にも、一緒に同じ部屋で生活してきたことで、何度も衝突を繰り返してきた。
 それでも、ただの一度だって手を上げることだけはしなかったのに。
「ああいうの…キレるっていうのかな」
 教室に入って美夜の表情を見た瞬間、今まで経験したことがない感覚に襲われた。自分の意志と関係なく、体が動く。結花の台詞を引き金にして、予備動作もなく、結花の頬に手が飛んでいった。
 どうして結花を叩いたんだろう。寮の部屋で結花が中等部の生徒と一緒にいる場面なんて、何度も見てきたはずなのに。


 結花の相手が美夜だったから?


 美夜が美優の姉だから。美優の双子の姉だから。
 美優にそっくりだから。
「…」
 寮に向かっていた足が止まる。
 そう。芹菜はそれを考えないようにしている。美夜が美優の双子の姉であることばかりをわざと意識して、その事実から目を逸らしている。
 美夜は美優の姉で、自分も美優の姉。だから、似た気持ちを共有しているものだと勝手に思い込んで。
 彼女が美優に瓜二つなことを、自分から考えないようにしていた。
 教室で振り向いたあの顔を見たとき、どうして意識が飛んだのか。それは、あの振り向いた顔が美優に見えたから。
 四年前、あの嵐の夜。同じベッドで眠りたいと呟いた不安げな美優の顔を、芹菜は今でも忘れない。
 あんな表情は、もう二度と見ることはないと思っていたのに。