■ レインタクト 第4幕<3>
水瀬 拓未様


 朝は一人だった通学路を、帰りは二人で歩く。朝は、今日もここを一人で歩くものだと思って疑いもしなかった。
 でも、いま自分の隣には一人の少女が歩いている。
「美夜ちゃんは…」
 切り出そうとして躊躇した。聞かなければよかったと思うこともあると、咲紀は知っている。だから言いかけて言葉を呑んだ。
「はい?」
 美夜がちょこんと首を傾げる。交差点のような、道が分かれる場所にくるたびにこんなことの繰り返しだった。そのたびに咲紀は、呼びかけた言葉のあとに、他愛もない学校の噂話などを続けてしまう。
 本当に尋ねたいのは、こんなことじゃないのに。
「あ、咲紀さん」
 初めて美夜から声をかけられ、反射的に咲紀は立ち止まった。
「私の家、こっちのほうなんです。だから、ここで」
 無意識に歩きなれた道を選ぶ自分の足。それが進もうとした路地と、美夜が進みたい道はこの小さな交差点で分かれるらしい。
「そうなんだ」
 いつもなら十分足らずの通学路。隣に誰かを連れて歩くのは、確か芹菜以外では初めてだった。
 芹菜。
 彼女を思い出し、意識したとき、咲紀の足が美夜のほうに一歩踏み込んだ。足と一緒に、気持ちも踏み込む。
「美夜ちゃんは…双子、なんだよね。その、美優ちゃんの」
「…姉、でした」
 こくんと頷いた後、美夜は小さく答えた。そこに戸惑いがなかったのは、美夜自身、いつその質問をされんだろうと身構えていたからだろう。
 図書室で自分を見て、妹の名前を口走った咲紀の驚き方。そしてそのあとの会話と、最後の芹菜の涙。咲紀が芹菜にとってただの友達以上の存在であると、美夜は感覚的に気づいていた。
「でも…姉であるといっても一緒にいたのは六歳までなんです。事故で両親を亡くしてしまってからは、別々の家に引き取られましたから。美優にとってみれば、私なんかより芹菜さんのほうがきっとお姉さんだと思います」
 言って、美夜は今日のことを思い出した。
 昨日、バレッタを落としたことに気付いたのは家に帰ってからだ。自分の不注意さ加減に呆れながらも、美夜は朝早めに登校して思い当たる場所を探していた。教室にカフェテリア、昨日歩いた場所を思い出しながら懸命にそれを探したけれど見つからなくて、泣きそうになりながら自分の教室に戻ってきた。だからクラスメイトの真奈美がそのバレッタを持って人を探してるんだけど、と尋ねてきたときは、嬉しくて仕方がなかった。昼休みに会ってもらいたい人がいるんだけど、と頼まれても、バレッタが見つかった安堵から何も考えずに頷いていたような気がする。
 そして芹菜と出会って、美優が二年も前に亡くなっていたと知った。
 不思議と悲しみが染みてこない。その報せは遠い国の出来事のようで、現実味がなかった。妙に落ち着いていられる自分に、でも違和感を感じない理由。泣き出した芹菜を見て、美夜はそれを思い出した。
 昔、似たようなことがあったことを。
「美優は泣き虫だったから…。芹菜さんもたぶん苦労したと思います」
 あれは六歳の誕生日。雨が降っていたあの日、両親はあっけないくらい簡単に帰らぬ人になってしまった。その夜、報せを受けて、幼いなりにそれがどんなことかを理解して泣き出した美優。
 いつも先に泣き出すのは美優だった。
 美夜だって悲しいわけじゃないのに、えぐえぐと嗚咽を漏らして目に一杯の涙を溜める妹の姿を見ていると、悲しさはどこかにいってしまう。
 公園で買ってもらったアイスを食べようとして、犬に吠えられて落としたときも。一緒に買ったお菓子のおまけが、気に入らなかった時も。
 美優はいつもすぐに泣き出して、美夜はそんな妹を慰めていた。
 お姉さんだから。そんな理由じゃない。ただ、美優にはいつも笑っていて欲しかった。たったそれだけ。泣いている妹をなだめるのに、他に理由なんていらない。
 だから、美夜は覚えてしまった。泣くことより、慰めること。そして、人が泣き出す気配に、とても敏感になった。
 この人は泣き出すから、私がいま泣いたら駄目。
 昼休み、話し始めた芹菜の声を聞いていた美夜は、無意識にハンカチに手を伸ばした。
「…あれは、たぶん美優ちゃんより泣き虫だよ」
 不意に、うつむいていた美夜に咲紀の声がかかる。
 咲紀の脳裏に浮かぶ。二年前の雨の日、泣きじゃくっていた芹菜。あの日から、咲紀は彼女を今まで以上に意識するようになった。
「美優ちゃんと、すごく親しかったわけじゃないんだ。でもね、芹菜のほうがずっと泣き虫だよ。…ただ、人前で泣かないだけ」
 誰よりも芹菜を見てきた自信がある。だから、そう思う。 
「あたし、一人っ子だから。妹がいる感覚ってわからないけど…でも、自分の身近に自分より弱い存在が居たら、守ってあげなくちゃって思うと思うんだ。泣いてる暇、ないのかもしれないね」
「あ…」
 顔を上げると、そこに笑顔があった。そんな咲紀の顔を見て、美夜は理解できた。
「咲紀さんは…」
「ん?」
「…好きなんですね、その…芹菜さんが」
 一瞬ぽかん、とあっけにとられた顔をして、それから咲紀はにゃはは、という表現が似合いそうな笑顔を浮かべる。
「好きだよ。大好き。…だから、正直ぞっとした。だって、あなたそっくりなんだもの、美優ちゃんに。怖かったよ」
 笑顔のまま、咲紀はそう言って美夜の頭に手を伸ばした。その手を見上げるように、美夜は目線を動かす。
「…でも、話せてよかった。あなたは美優ちゃんと似てるけど、美優ちゃんじゃない。もしも芹菜があなたのことを好きになった時、美優ちゃんに似ているからって理由だったらどうしようかと思った。そんなのにあたしは勝てっこないから」
 髪をなでられる感触に、思わず美夜は瞼を閉じた。
「でも、それはないって確信した。もしも芹菜があなたを好きになったとしても、それは美優に似ているからじゃない。それがわかれば良かったの」
「…私も」
 呟いて見上げると、わずかに背の高い咲紀が美夜の顔を覗き込む。それを、美夜はまっすぐに見つめ返した。
「私も、妹の代わりで好きだなんて言われたくないです」
 言い切った美夜の顔を見て、咲紀はまた微笑んだ。なんて素敵な笑顔をもっている人なんだろうと美夜が見惚れていると、その視線に気づいたのだろう。咲紀が彼女の頭においていた手で、ぽんぽん、と彼女の頭を撫でた。
「これからよろしくね、美夜ちゃん」
「はい」
 宣戦布告なんだろうか。そう心の中で自問自答した美夜は、なんだかおかしくて思わず笑ってしまった。