■ レインタクト 第5幕<1>
水瀬 拓未様


 胸の下に残る手術の傷跡は、里奈にとってなによりも忌まわしい存在だった。
 生まれつき病弱だった里奈は、幼少の頃に何度も入退院を繰り返した。幾度かの手術をへて人並みの健康を得られた頃、その代償として残された傷跡。
 里奈にとって当たり前だったそれが彼女の苦悩になったのは、小学生の頃の身体検査で聞こえた同級生の一言だった。
「そんな体じゃお嫁にいけないね」
 無邪気な同級生の一言は、しかし彼女の心に杭のように深く根付いた。
 以来、リハビリとして勧められ、自分でも大好きだった水泳も苦手になった。薄い水着一枚、その下に隠れている傷跡はまるで彼女には爆弾のように感じられた。泳ぐことが唯一楽しみだった里奈にとってみれば、それは翼をもがれた鳥にひとしかっただろう。人目に触れれば最後、自分の心を粉々にしてしまうような気がして、夏でも必要以上に肌の露出を避けた。人目がなによりも畏怖の対象で、小学校高学年にあがったころ、異性を意識し始めた男子生徒の視線にたまらなく嫌悪を感じて、水泳の授業には何度仮病を使ったかわからない。
 視線に対する嫌悪感は次第に異性そのものに対しての嫌悪になり、里奈はその嫌悪がない場所を探し、女子校である花梨女子学園中等部へと入学した。
 幾分の安堵を得ても、しかしそれが彼女の憂いを根本から解決したわけではない。里奈はそれを払拭するために、心機一転、自ら水泳部へと入部し、そして失っていた自分を取り戻すために泳ぐことを決意した。
 久しく忘れていた水の感触。それに触れ、自分というものを取り戻しつつあったとき、彼女は自分自身の不注意から溺れてしまい、意識不明となって保健室へ運ばれた。
 中等部二年の夏。日差しは高く、蝉の声は遠くまで聞こえるような日の出来事。
「大丈夫?」
 声が聞こえて、里奈はゆっくりと瞼を開いた。意識を取り戻してまず、彼女は胸の下に触れる。目覚めてすぐその傷跡を確かめてしまうのが、子供の頃からの癖だった。
 消えていればいい。そう願いながら傷に触れ、その感触に現実はこんなものだと教えられる。その繰り返しが里奈の日常。
「水、そんなに飲んでないみたいだし、外傷もないから大丈夫よ」
 二度目の声に、ようやく里奈は視線を動かした。そして、彼女と目があう。胸部に触れた感触から、自分が裸で寝かされていることに気づく。
 同時に、それを見られた、という事実にも。
「先生」
 浅見恵美理先生。それが中等部二年の里奈が知っていた保険医の情報の全てだった。身体測定は欠席、後日病院での検査結果を学園に提出していた里奈にとって、保健室という空間は縁遠い場所にしておきたい、そう願っていた場所。
 その場所が勤務先である恵美理のことは、その名前しか知らないままでいるのが理想的であったはずなのに。
「…裸、見たんですか?」
 胸の傷に手をおいたまま、里奈はそっと訪ねた。と、恵美理は持っていたボードになにやら書き込んだ後、里奈の額に手を当てつつ応える。
「お仕事だもの。塗れた水着のままベッドに寝かせるわけにもいかないでしょ」
 にこ、と彼女は微笑んだ。
「じゃあ、見たんですよね」
 淡々、問いかけるでもなく呟いた里奈の独白に、恵美理は首を傾げる。それからやや間をおいて、思い出したように、
「胸の?」
 と、いささか自信ない様子で里奈に問いかけた。里奈がそれに目線を逸らして頷くのを見て、恵美理は悟るところがあったらしい。
「この職業やっててなにが役得かってね、うら若い女子の肌を触ってお給料が貰える事よ」
 そう茶化すように笑い、それから恵美理は綺麗に畳まれた制服と下着の入ったカゴを持ってきた。それは里奈が部室で脱いできた制服と下着に違いなく、恵美理は、若い子の下着ってやっぱり可愛いわね、と呟きながら、それを枕元のテーブルに置く。
「もう少し寝てても良いし……着替えるなら、カーテン閉めて外に出るけど?」
 恵美理がそう声をかけたものの、里奈からは返答がない。何事か思案しているような里奈の瞳を見てわずかに溜息をついた恵美理は、答えを聞かないままカーテンを閉めると、残っていた雑用を片づけるために事務机のほうに戻った。
 蝉の声は鳴りやまず、急き立てられるように書類に目を通す。恵美理がふと顔をあげると、あたりはいつの間にか夕暮れに染まっていた。時計を見れば、カーテンを閉めてからゆうに一時間は過ぎている。
「上坂さん?」
 室内にあるベッドの方に目をやると、カーテンは未だ閉まったままだった。書類を机の脇に片づけ、恵美理は声をかけつつカーテンを開けた。
 するとそこには、裸のまま上半身を起こした里奈が、まるで待ちかまえていたかのように視線をあわせてきたのである。
 胸の下に残る傷跡を隠さず、逆にそれを見せるように掛布をはだけさせた里奈は、カーテンを開けた恵美理に向かって、
「どちらなんですか?」
 と訪ねた。
「…子供の頃からあたしの周囲には、この傷を見ると慰めるか、目を逸らしあえてそれに触れないか、どちらかの人しかいませんでした。先生は、そのどちらですか」
 まっすぐな瞳を向けられて、恵美理が驚いたのは一瞬のことだった。すっと後ろ手にカーテンを閉めた恵美理は、すっかり温もり冷めた枕元の椅子へ座り直した。
 水着を脱がせてその傷跡を見たときから、なんとなし、その予感がなかったわけではない恵美理は、里奈の瞳を受け止めるように視線を合わせる。
「慰めるつもりはないから、前者じゃないわね。でも、いまからその話題に触れようとしているわけだから、後者でもない。先生は、そのどちらでもないみたいよ」
「…わかりません」
 恵美理の言葉を聞いて、やや困惑しながら里奈は呟いた。それも笑顔で受けて、恵美理は並べていた足を組む。
「傷をもっている人の心の痛みは、その人でなければ分からない。分かろうと努力することは出来るけど、それだって完全じゃない。まして、今し方その傷の存在を知り、その傷の理由さえしらない私が、あなたを慰められるわけはない。けど、私は少なからず医学によって人を助けたいと志した結果、ここにいる人間なの。だから、傷を見てそこから目を逸らすことはしない」
「でも、さっきは」
「少なくとも、言いたそうじゃない話題を根ほり葉ほり質問することは、失礼だと思わない? 思春期を迎える時期を任せられる保険医はね、体だけでなく心のケアも任されてこの場所にいるのよ」
 言って、恵美理は今日の収穫はあなたの裸が見れた事ね、と冗談ぽく笑う。しかし里奈はその言葉を聞いて、傷跡を見るようにうつむいた。
「…あたしの裸なんて、綺麗じゃないから、見たところで気分悪くなるだけです」
 手で、それをなぞる。脳裏によみがえるあの日の同級生の言葉。
 そんな体じゃお嫁にいけないね。
 それは、里奈の心をむしばみ続けてきたもう一つの傷跡。
 水泳部に入部して以来、誰よりも早く部室にやってきては水着に着替え、誰よりも遅くまで練習をしてきた。そうして、誰にも見せることなく隠してきた傷跡。
 一つの傷跡はもうひとつの見えない傷を生み、里奈はその二つを誰の目にも晒すことなく今までも、そしてこれからも生きていくつもりだったのに。
「人の価値観なんて、存外あてにならないものよ」
 うつむいた里奈に、恵美理はそう声をかけた。
「あなたの裸が綺麗かどうかなんて、そんなのあなたが決める事じゃないの」
 言いつつ、恵美理は椅子から立ち上がって、ベッドに腰をかけた。パイプで出来たベッドは二人分の重さに軋み、バネがきしきしと音をたてる。恵美理は気にせず、裸のままの里奈の頭を、自分の胸元に抱き寄せた。
「体はなによりもその人を記録している、レコードのようなものよ。だから、聞いてみればその人が綺麗かどうかはすぐにわかるの。でも、レコードはレコードだけじゃなにが記録されているか知ることも出来ない。だから、針がいるの。知ってる?」
 恵美理はくすりと笑いながら、里奈の頭を抱いていた両腕から右手を離し、それを里奈の目の前で示した。そしてそれを、里奈の胸へとそっとおろしていく。
「あっ」
 短い声は、もしかすると悲鳴だったのかもしれない。瞬間、強張った里奈の体は、恵美理に触れられた事によってより硬さを増した。
「傷は、あなたが生きている証。それを乗り越えてここまでやってきた、なによりの証拠。誇りなさい、なんて言わないわ。そんなこと、言えるはずもない。もしも自分の体に同じような傷があったのなら、私だってきっと、たくさん迷うから。でも、この傷があるからあなたの体が綺麗じゃないと、なんで言い切れるの?」
 波に揺られる木の葉のように、その手は優しく何度もそれを撫でた。検診以外でその場所を他人に触れられるのは初めてだったけれど、しかし里奈はそれに恐れも怖さも、そして嫌悪感すら覚えなかった。
 ただ、なぜだか涙が出た。
「あなたはガラス細工なんかじゃない、立派な人間よ。傷一つあるせいで値打ちが下がるもんですか。むしろ、この傷があったからこそ経験できた出来事が、あなたにしか授かることの出来ない強さとなっているはずなんだもの」
 言って、恵美理は沈めるように腕に力を込めて、里奈を抱いた。そこに、愛おしいものを抱きしめる優しさを込めて。
「だから今、あなたは泣いているのよ。私の声が、ちゃんと聞こえているから」
 ずっと隠し通してきたその傷跡よりさらに深いところに隠されていた彼女の感情の純粋さが、恵美理の腕を引き寄せる。
「私では、あなたの胸の傷跡を消すことは出来ない。…でも、その胸の奥にある傷なら、私でも力になれるかもしれない。嘘に聞こえる?」
 耳元で聞こえる声に、里奈は首を左右に振って答えた。声を出したら最後、嗚咽してしまいそうで、それがたまらなく恥ずかしい。ぐっと食いしばり、その声を漏らすまいとする里奈の、その頭をより抱き寄せた恵美理は、囁くように言葉を継いだ。
「ありがとう」
 その声にたまらず、里奈は我慢していたそれをしゃくりあげる。だから恵美理は、それが外に聞こえないように、より深く、より静かに里奈を抱きしめ、離さなかった。
 誰かの言葉と想いを身に受けて人が生まれ変わる強さをもつことができるのだとしたら、里奈にとって恵美理こそがその相手だったのだろう。欲しかった言葉、憧れていた強さ、そして夢見ていた居場所。全てがその腕のなかにあって、里奈は恵美理に抱かれたまま、時間を忘れて泣き続けた。
 中等部二年の夏。それは、今から三年前の夏の出来事だった。