■ レインタクト 第5幕<2> 水瀬 拓未様 以来、里奈は明るくなった。どこか内向的だった性格も積極的になり、水泳部ではもとよりの練習量もあって、大会の代表選手として選ばれるほどに成長した。 「先生、あたしね」 事あるごとに、里奈はそれを恵美理のもとへ報告にやってきた。嬉しそうに話す里奈と、それを笑顔で聞いている恵美理は、先生と生徒というよりも、どこか母親と子供のようであり、恋人同士のようにも見える。 そしてその関係がさらに一歩踏み込んで、精神の信頼関係よりも遅れること三ヶ月。秋の夕暮れに染まる保健室のベッドの上で、二人は深く肌を合わせた。 「里奈ちゃん…」 名前を呼ぶと、彼女は喘ぐ表情の中で笑顔を見せる。水泳部の練習で小麦色に焼けていた肌もすっかり落ち着きを取り戻し、水着の白い跡も薄くなりつつある。その境界線を懐かしげになぞりながら、恵美理は何度も声をかけた。 「…せん…せ…っ」 頼りない指が、時に弱く、時に爪の跡を残すほどに強く、恵美理の肩をつかむ。きっと尻尾があったらたいそう喜んで左右に揺れているんだろうと、そんな事を想像させるほど、里奈の顔は子犬のように愛らしく、また、喜色に満ちていた。 里奈の信頼、そして想い。それはあまりにも純粋で、それを言葉として毎日受け取り続けた恵美理の心にも、やがて生徒に対する気持ち以上の想いが芽生えるに至る。 それは今、彼女の指先を通じて里奈の肌からその奥へと還っていく。 「大好きよ…」 生徒としてでなく、個人として。保険医としてでなく、女として。唇を落とし、その告白を肌に染みこませるように呟く。見上げれば、里奈はこく、と頷きつつ、わずかに小さく開いた唇で、うん、と、吐息とともにその言葉を受け止めた。 その健気な姿を見て、両腕をその背中に回した恵美理は、ゆっくりと、しかし確実に力を込めて里奈をきつく抱きしめた。 痛いと感じてもおかしくないその抱擁を受けて、けれど里奈は苦しいともなにも言わず、かえってその体を恵美理に押しつけた。 ひとつに。 痛みも何もかも乗り越えて、それを欲することはわがままなんだろうか。心地よさにもみくちゃにされた意識の中で、里奈はそう想いながら、恵美理の頬に自分の頬を寄せた。 秋を過ぎ、冬を越え、季節が春になっても、二人の想いは変わらずにあった。 「来年はいよいよ三年ね」 「うん」 制服を着用しつつ、恵美理の問いかけに答える里奈。脱ぎ捨てた制服に体を包み、このベッドから降りれば、上坂里奈と浅見恵美理の関係は先生と生徒に戻る。 「あっち向いて、後ろ見せて」 恵美理は、制服姿になった里奈の肩をぽんと叩いた。 「え?」 「いいから」 首を傾げた里奈を半ば強引に後ろへ向かせた恵美理は、取り出した白いリボンで、彼女の長い髪を結い、ポニーテールを作る。 「鏡、見てらっしゃい」 髪に何かをされたのが分かっていた里奈は、あえて頭に触れないまま、鏡の前に立ち、そして髪をまとめ揺れている白いリボンを見つけた。 「進級祝いよ」 「いいの?」 鏡と恵美理を交互に見て、隠しきれない喜びを顔に浮かべる里奈。 「いいわよ。先生のお古でよければ」 「ありがとう、先生」 たん、と床を蹴って飛びつくように鏡の前から戻ってきた里奈を抱き留め、恵美理はその頬に口づけ、その髪を撫でた。 春の香りが校庭を満たす四月。中学二年の一年間を終えて、そして三年へと進級した里奈は、そこで彼女と、並木結花と出会うことになる。 結花にとっても、そして里奈にとっても、それはある種、運命の出会いであったと言っていいのかもしれない。心に傷をもっていたからこそ、里奈は結花の瞳に隠れているそれを見つけてしまった。 恵美理が言っていた、傷のある心に授けられた強さ。もしもその強さが本当に自分にあるのならば、彼女を救いたいと、里奈はそう思った。 里奈だからこそそれに気づいた。昔、それと似たような瞳をしていたであろう自分。 見て、いられなかった。 「えと、並木さん、だっけ」 「…?」 急に声をかけられ、窓際の席だった結花はやや驚いた顔で振り向く。よもや自分に声をかけるクラスメイトなど、いるはずがないと思っていた。 そんなお節介な人、今時いるはずがない。 「誰…?」 見上げると、そこにポニーテールを揺らして微笑む少女がいた。見上げた顔に見覚えはあるけれど、名前までは分からない。クラスメイト、のはずだ。 結花にとって、その頃の里奈はその程度の存在だった。 「あたし、上坂里奈。クラスメイト」 「ふぅん。それで? 何の用?」 つっけんどんな返事。でもそれはなんとなく予感していたので、里奈はくじけることなく言葉を続けた。 「お昼、一緒にどうかな、と思ったんだけど」 「私と?」 唇の端でわずかに笑う。微笑と言うよりもそれは嘲笑だった。けれどそんな結花を見ても、里奈はそこから退かない。 「駄目かな?」 「駄目、って言ったら諦めてくれるの? 上坂」 「今日のところは」 値踏みするように見上げてくる結花の視線をしっかりと受け止め、里奈はそう返事をする。 「じゃあ、諦めて。今日のところは」 「うん。また明日、誘いにくるから」 二人にとって初めての会話は、昼休み前に交わしたそれだけのやりとり。 言葉を残して去っていく里奈の背中と揺れるポニーテールをしばらく眺めていた結花は、珍しい生き物でも見るように首をすくめてから、窓の外に視線を戻した。 言葉通り、翌日も里奈は結花を昼食に誘った。前日と同じく、素っ気なく断る結花。けれど里奈はけして深入りをせず、そして根気よく、結花の机に通った。 「ね、並木さん」 「…今日も来たの?」 初めての会話から一週間。 「うん。お昼、一緒に」 一週間繰り返してきた問いかけを、今日もまた結花にする里奈。 断られてもいいと思っていた。ただ、繰り返していればいつかきっと変化がある。 そしてその思いは、それを知るはずもない結花に届く。 「ねえ、何が目的なわけ? 先生からでも頼まれたの?」 いつもならば、窓の外を見ながら断るだけの結花が、里奈を見て、そう問い返してきた。 「どうして? 私の独断だけど」 どうしてそんなことを聞くのか分からない、という顔で里奈は答える。 「…上坂、私の噂、知らないの?」 「噂? どんな?」 質問を質問で返されて、結花はわずかな苛立ちを覚えながら席を立った。いきなり立ち上がった結花に里奈が驚いていると、 「…いいわ、食事、一緒に食べましょう」 そう言って結花は、里奈をさらに驚かせた。 食堂に入った瞬間、里奈には一部の生徒がざわついたように見えた。空いている席は都合良く見つかり、そしてその席は里奈と結花が座ってからずっと、周りに誰も近づこうとはしなかった。 それどころか、耳をかすめる話し声と、時折向けられる奇異な視線。里奈はそれが結花と、そして彼女と一緒に食事をしている自分に向けられているものだと気づいた。 結花は本当に一緒に食事をしただけで、何も語らず、ついに一言も話さなかった。 けれど放課後。 「上坂さん、今日…並木さんと一緒に食事してなかった? 上坂さんは三年で彼女と同じクラスになったから知らないだろうけど…あの人、一年の頃ずっと登校拒否してたんだよ。それでね、家まで迎えに行った先生に反抗して、それが噂になって誰も近寄ろうとしなかったの。一緒にいると先生に目をつけられるから、って」 里奈は話したことのないクラスメイトから、声をかけられてそれを知る。心配そうに自分を見つめるそのクラスメイトに、里奈は問い返した。 「でも、実際に彼女の側にいて先生に目をつけられた生徒っていなかったでしょ?」 遠回しに、並木結花には近づかない方がいいと、そう忠告する彼女に聞き返す。里奈から尋ねられて驚いたらしい彼女は、思い出すような仕草をしてから、 「うん、だってそりゃ目をつけられる、って言われれば、近寄りたくないよ」 と答えた。心の中でやっぱり、と思いながら、里奈は自分の心配をしてくれたのであろうそのクラスメイトに会釈して別れた。 夕日に染まる帰り道、一人歩きながら里奈は結花の事を考える。 理由はわからない。けれど、彼女がなんらかの事情によって人を遠ざけ、一人になろうとしているのは分かる。自分が胸に残る傷跡を人に見られたくないと、視線を嫌悪してこの学園を選んだように、彼女にもきっと一人になりたい理由があるんだろう。 今日、一緒に食事をしてくれたのはきっと、それを教えるため。事実、里奈はそれを見ていたクラスメイトの発言から、結花自身が口にしていた「噂」を知った。 もう自分に関わらないで、と言われたも同じだ。 「あたしは…」 先生のようにはなれないんだろうか。そう、心の中で呟く。 あの夏の日、自分を包んだのは腕よりもその言葉。耳に届く声に、里奈は救われたような気がした。否定してきた自分を、自分自身が嫌いだと思っていた部分を、出会ったばかりのあの人は、ただ受け止めてくれた。 自分も、あの人のようになりたい。それは憧れにも似た恋心。ひとつになりたいと願うのもきっと、あの人の中で、よりあの人に近づきたいからなもかも知れない。 結花の瞳に気づいたとき、胸が痛んだ。 良く知っている瞳。それは、ずっと鏡の中に見てきた、恵美理に出会うまでの自分の瞳に似ていた。 心許せる存在なく、ただ一人でいたいと望む。そんな瞳。 でも、その瞳で見る世界は寂しいものなんだと知った今、里奈は結花にもそれを教えてあげたいと思った。 せめて、笑ってもらいたいと。 それが自分勝手な願いかもしれないと知りつつも。 |