■ レインタクト 第6幕<1>
水瀬 拓未様


 どうしてあの時、素直になれなかったんだろう。
 それは、生まれて初めての後悔。あるひとつの言葉を言えなかったことで、結花は初めて悔いるという気持ちを知った。
 以来、なるべく素直になるよう努力している。全ては、後悔をしないため。だから、嫌なことはそのままにしないで、嫌だと告げるようにした。
 彼女と食事をすることも、嫌だったはずなのに。
 わざと孤立するように過ごし、生徒はもちろんのこと教師ですら自分には関わろうとしない。それなのに、なぜ彼女は、その誰も踏み込みたがらない領域に入ってきたのか。
「…でも」
 それも今日で終わるはず。
 昼食時間、あれだけ露骨に周囲から避けられ、その空気を肌で感じたのなら。きっと明日からは、また一人に戻れる。
 けれどもし、明日も彼女が食事に誘ってきたら、自分はどうしたらいいんだろう。
「まさか」
 口に出して否定する。そんなことはありえない、と。
 もしも自分だったら、そんなことは出来ない。教師から疎んじられているという噂のある生徒と、自ら一緒に行動しようなんてこと。
 普通なら、そこまでして赤の他人と関わろうとはしないはず。
 けれど翌日、少女は昼休み前になると彼女の元にやってきた。
「並木さん」
「…上坂」
 見上げると、彼女は昨日と同じ表情でそこにいた。
「ね、お昼。今日も一緒に…」
「聞いたんでしょ?」
 里奈の語尾に自分の声を重ね、うち消すように言葉を出す。まっすぐ射るようにその瞳を見返すと、里奈はややすくんだように、結花には見えた。
「…聞いた」
 沈黙の後、ややあって里奈が答える。他人が聞けば不明瞭な会話でも、二人にはそれで充分だった。
 けれど、里奈のその毅然とした態度が、結花にはわずらわしい。
「じゃあなんで…!」
 聞いたのなら、なぜあなたは今日も平気な顔をしてここにいるの。
 結花の語気が荒くなる。昼休みが始まったばかり、まだ教室の中に残っていたクラスメイトがその声に驚いて振り向いた。中には結花の声を初めて聞いた生徒もいたはずだ。
 当時、一般の生徒がもっていた結花の印象は、無口で大人しく、それでいて抜き身の刃物のような少女、だった。刃物はそこにあるだけで威圧感がある。けれどその刃物が誰かに差し向けられているのを、誰も見たことがなかった。
 教室に残っていた生徒は、その成り行きが気になる気持ちに後ろ髪をひかれながらも、示し合わせたように次々と教室を出ていく。
「噂は所詮噂だもの。あなたの口から直接聞いた訳じゃないから」
 二人きりになった教室、里奈の声は静まったその空間に余韻を残す。それを聞いた結花はそっと立ち上がり、里奈と視線の高さを合わせた。
「…わかった。ほっといて欲しいの。私は一人でいたいから」
 それだけ告げて、結花は里奈の真横を通り過ぎる。足早に出ていこうとする結花に声をかけようと振り向いたときには、結花の背中は教室のドアから廊下へと消えていくところで、口にしかけた言葉を飲み込み、里奈はただ、行き場のない気持ちで拳を握りしめた。
 結局、昼休みが終わっても結花は教室に戻ってこなかった。周囲でひそひそと交わされる会話の中に自分と彼女の名前が聞こえるたび、里奈は言いようのない気持ちに胸が染められた。
 放課後、まっすぐ家に帰る気にもなれず、里奈は保健室に寄った。そこで恵美理から結花の事を尋ねられて、噂というものが自分の想像以上の早さで広がるものだと知る。
「どうして知ってるの? 先生」
 そう尋ねる里奈に、恵美理は微笑みを返しただけだった。その笑顔で張りつめていた糸のような何かが緩んで、里奈は溜息をつくと椅子に座り込む。
「先生は並木さんのこと、知ってるの?」
 雑務なのか、書類に目を通している恵美理に、里奈は問いかけた。
「知ってる。先生たちの間じゃ、知らない人はいないもの」
 手を休めず、書類を見たままで恵美理は答える。それを聞いた里奈がまず気になったのは、恵美理が結花のことをどう思っているのか、だった。
 どう質問すればいいのか、その言葉の選択に里奈が迷っていると、恵美理の方から、
「並木さんのこと、どう思ってるの?」
 と、逆に問われてしまう。
「どうって…」
 助けたいと思った。では、ちょっと違う気がする。
「放っておけない…かな」
 自信なく答える里奈。結花のことを考えたとき、好きとか嫌いとか、そんな感情よりも先に、なによりも里奈の心を支配するのはあの表情だった。
 授業中、何度も目にした横顔。
「恵美理先生」
 名前を呼ぶと、恵美理は背を向けたまま、顔だけで振り向いた。目があって、里奈は自分でも知らずうつむいてしまう。
「先生はその…並木さんと話したことある?」
 たどたどしい様子で尋ねてくる里奈を見て思うところがあったのか、恵美理は持っていた書類を机の脇に置いた。それから自分の座っていた椅子を回し、顔だけでなく、ちゃんと全身を里奈に向ける。
「…私がこの学校にやってきてね、一番最初に名前を覚えたのが彼女よ」
「最初に?」
「ええ。今から二年前、この学園に赴任してきて最初に名前を覚えたのが彼女だったの。…里奈ちゃん、並木さんが登校拒否してたのは知ってる?」
「家まで迎えに行った先生に反抗した、って…」
 恵美理の問いかけに、里奈は頷く。その話は、昨日の放課後、クラスメイトから聞かされて知ったばかりだった。