■ レインタクト 第6幕<2>
水瀬 拓未様


 夕暮れが教室を染めた。窓がまるでセロハンのように、西日が差し込むその空間は綺麗な朱色で満たされる。その教室の中でひとり席に座り、里奈は彼女が戻ってくるのを待っていた。
 構内閉鎖までは、あと一時間もない。さっきまで校庭から聞こえてきていた部活動をする生徒たちの声も今はもうなくて、ただ春の夕暮れは、静けさだけをつれていた。
 彼女は戻ってくる、そう里奈に教えたのは恵美理だった。昼休みになにも持たず出ていったのなら、鞄をとりに必ず教室に戻ってくるからと、恵美理はそう言って笑った。
 斜め前にある結花の机。そこには、ぽつんと鞄が残されている。
「…」
 じっとその机を見つめて、里奈は恵美理から聞いた話を思い出していた。結花の過去。他人の昔話は、どこか非現実的なにおいがする。
 知らなければ知らないまま、ずっと過ごしていく。むしろ、それを知らない人の方が多い。他人の過去を知る機会は少ないし、むしろ、知ろうと思う回数はもっと少ないのかもしれない。
 変えることの出来ない歴史。それがつらいものだと感じれば感じるほど、聞いたあとの後悔は強くなる。知らなければ良かった、と。
 でも、知らなければ語れない言葉もあるはずだし、聞かなければなにも始まらない。そういう意味で言えば、里奈はようやく、結花と話すための始まりの場所に立ったのかもしれない。
 ただ、ちゃんとこの場所に立つためには、彼女の口から聞かなくてはいけない。そして、知るだけでなく、知ってもらわなくては立っている場所から進めない。
 息を呑む気配。わずかな音だけを響かせて開いた教室のドア。入ってきた人影は、窓際の机には向かわずに、まっすぐ自分の元へ歩いてきた。
「…」
 無言で問いかけられている気がした。なぜ、あなたはここにいるのか。その人影はそう自分に尋ねていると思ったから、里奈は声を出す。
「待ってたの」
「どうして」
「…知りたくて」
 結花の問い返しに、里奈は少し迷ってから、正直に答えた。
「噂とか、人から聞いた話じゃなくて、あたしはあなたから聞きたい。どうして一人がいいのかって。一人でいたいのかって」
「聞いて、どうするの」
「…わからない。でも、あたしは…あなたのことをあなたから聞きたいと思ったの」
 里奈はそこでようやく結花の顔を見上げた。その表情は、教室でいつも窓の外を見つめている顔とは少しだけ違っているような気がする。
 二人きりという状況が、ほんの少し、結花の素顔を見せているのかもしれない。
「私も…あなたに聞きたい。どうして私のことでそんなに一生懸命になるの?」
 降ってくる結花の声。
「似てると思ったから。並木さんは、昔の自分に似てるって。だから、知って欲しかった。一人は寂しいって」
「私は寂しくないわ。今までだって、これからだって」
「あたしもそう思ってた。一年前は、そう思ってたよ」
 里奈の呟きに、結花の唇が止まった。
 知ってもらうことから、全ては始まる。自分を知ってもらわなくちゃ、なにを伝えてもそこには届かない。
「あたしも、一人だった。ずっとそうだと思ってた。自分の体は醜いから、こんな自分を受け止めてくれる人はいないんだって。拒絶されて傷つくなら、初めから一人がいいと思ってたんだ」
 言って、里奈は自分の着ている制服に手をかける。傷をもつものだけが授かるという強さ。その傷を自ら人目に触れさせる勇気をくれたのは、一人の女性との出会い。
 夕日の中、里奈は制服のボタンを外す。
「あたし、体の弱い子だったの。手術ばっかりして、ようやく元気になった頃に、健康の代償に残されたのがこの傷跡で、小学校の頃、同級生がこの傷を見て言ったの。そんな体じゃお嫁にいけないね、って。もちろん、悪気はなかったんだと思う。でも、あたしにとってそれはすごいショックな出来事だった」
 胸を隠す下着の、その下に残る跡。里奈はそれを指でなぞるように示した。結花は言葉なくそれを見つめていたが、里奈の視線が自分の顔を見つめていることに気づいて、慌てるように目を逸らす。
「…怖かった。この傷跡を誰かに見られたら、自分が全部否定されちゃう気がして。だからずっと隠して生きていくつもりだった。誰にも秘密で、一人でこの傷を背負って生きていくんだって、そう決めてた」
 それを壊さないように、ゆっくりと語りかける。自分がこんなに優しい声を出せるなんて、里奈自身今まで知らなかった。
「でも、この傷を受け止めてくれる人がいた。…こんなあたしの体を、綺麗だって言ってくれる人がいたの」
 きっと、恵美理に出会わなければ知らずにいた自分。
「その人に出会って知った。自分が今までいた世界は、すごく狭くて寂しい場所だったんだって。一人でいることが、どんなに切ないことなのかって」
 昔の自分を振り返る。そして、その想いは結花と出会って強くなった。誰かに自分を認めてもらえる喜び。それは、かけがえない強さをくれる。
「…あなたの目は、昔の自分に似てた。誰かが側にいることが苦痛で、一人がなによりも落ち着けると思っていた頃、あたしはそんな目をしていた気がする。だから…」
「だから…私に一人はやめろって言うの?」
 里奈の傷跡から目を逸らし、足下を見ていた結花が顔を上げる。
「黙って聞いてれば…そんなのあなたの言い分でしょう? 受け止めるとか、自分に似てるとか、そんなの好き勝手に決めつけてるだけじゃない! 私は……私は、一人でいられればそれで充分だって言ってるでしょう…!」
 それは、切なくなるほど感情に満ちた叫び。本音の一歩手前、自分をさらけ出せずにいる結花の悲鳴。
「…一人が平気だなんて、そんなことない」
 ぽつりと、しかし里奈はその言葉を結花に届くように口にした。
「あたしは、すごくつらかったよ。一人でいることも、一人でいようとすることも。いつも緊張して、他人の視線を気にしてた。でも、この体の傷を他人に見られることはそれ以上につらいことだと信じてたから、つらくてもそうするしかなかった。…あたしの一人と、あなたの一人は同じものじゃないのはわかるけど……でも、どこまでいっても一人は一人でしかないと思う」
「でも、私は…」
 続く言葉が見つけられず、そのままうつむいてしまう結花。そんな彼女の様子を見ながら、なによりも里奈は自分に驚きを覚えていた。
 誰かが側にいてくれるという自信は、自分にこんなにも力をくれる。優しさも、勇気も、恵美理が教えてくれた。それは、一人だったら気づくことの出来なかった強さ。
 一人では知ることが出来ない気持ち。
 これを、どうにかして彼女に届けたい。
 手を伸ばし、結花を抱き寄せることが出来たら。そう考えるけれど、自分の腕では彼女を包み込むことは出来そうになくて、里奈はそれをためらう。結花は手の届く距離にいるのに、その彼女を、まだ自分はどうすることも出来ない。
 同時に思い出す。恵美理の腕の感覚。抱き寄せられたときの安らぎ。それを結花に知ってもらいたいけれど、自分にはまだその力がない歯がゆさ。
 自分には、なにかが足りない。
「…一人は」
 沈黙も押し開くように、結花の声が響く。
「たしかに、一人はどこまでいっても独りかもしれない。でも、失うこともないわ。誰かが側にいるからこそ、いてくれるからこそ、それを失ってしまうかもしれない。…だから、私はこのままでいい」
 それだけ呟いて、結花は自分の机に歩み寄り、掛けてあった鞄を手にした。夕日の色がだんだんと闇に混ざって、灯りのついていない教室は、夕闇に溶け始める。
「でも…」
 教室から出ようとする結花が、そのドアに手を掛けて呟く。
「気持ちは嬉しかった。…ありがとう、里奈。私もあなたの体は綺麗だと思う」
 名前で呼ばれ、瞬間、きつく胸が締め付けられた。それが切なさなんだと里奈が理解したとき、結花の姿は夕闇にまぎれ、すでに教室から消えていた。
 遠く、チャイムの音が聞こえる。なにをする気にもなれなくて、里奈はただ椅子に座ったまま動けずにいた。それは去り際に結花が垣間見せた笑顔のせいであるかもしれないし、結局彼女の口からその理由を話してもらえなかった虚無感だったのかもしれない。
「結花…」
 彼女の名前を、一人きりの教室で口に出してみる。それは綺麗な響きだった。