■ レインタクト 第6幕<3> 水瀬 拓未様 家に帰って、ポストを確かめると一通の封筒。宛名が自分だったので、差出人を確認しないままそれを持って鍵を開ける。二階に上がり部屋に入ると、結花は持っていた封筒をベッドに向かって、鞄やキーホルダーと一緒にそっと放り投げた。 制服から部屋着に着替えようと、そう思って胸元のリボンに手を掛ける。 「…」 クローゼットの鏡と目が合う。結花は鏡の中の自分を見つめた後、リボンにかけていた手をおろした。 里奈の言葉が、耳から離れない。 軽く頭を振ってから、ベッドに座る。必要だと思う物しか置かれていない室内。 普通のベッドに、普通のクローゼット。シンプルな机に、控えめな鏡台。それが子供の頃から暮らし続けてきた彼女の城。 独りになるために用意された空間。 ふと手に触れる封筒の感触。まるで事務に使いそうな無愛想な封筒を見たときから、それが誰からのものかは分かっている。封を開けるために裏返すと書いてある名前。 笹木和宏。それは、父親だった人の名前。 季節関係なく、いつも同じ書き出しで始まる。6才の誕生日から一度も欠かすことなく毎月届くそれには、女性のような優しい文字で綴った言葉が溢れている。 それはまだ、結花自身が泣くことしかできなかった頃の話。子供を授かり前途には幸せしかないはずだった家庭の崩壊は突然に、しかしあっさりと訪れた。 父親の浮気によって。 母親はプライドの高い人で、誓って結婚した人の裏切りに耐えられなかった。離婚。結花は母親に引き取られ、笹木結花をほとんど経験しないまま、並木結花になった。 結花自身、物心ついた頃から父親という存在そのものがなかったから、父親はいないのが当たり前で、寂しいとは思わなかった。だから、父親が何故いないのか、疑問にも思わなかった。 離婚の事実は小学校に入学するとき、母親から教わった。そして、その年の誕生日から、父親だという笹木和宏から手紙が届くようになった。 離婚するとき、それはすでに決めていたことらしい。仕事や住所などの個人情報を明かさない限り、6歳の誕生日以後、月に一度だけなら手紙を送ってもいいと。 何故そんな奇妙な条件になったのか、結花は知らない。ただ、母親の性格と、そして手紙を読んで想像する父親を想うに、子供である自分と会いたがった父親に対して、母親が許せる最大の譲歩が手紙だったのかもしれない。 住所もなく、名前しか書かれていない手紙は現実味がなくて、父親と言うよりも、子供の頃に読んだ足長おじさんの話のようだった。写真なく、顔すら知らない父親から毎月やってくる手紙は、現実味というものを感じさせない。 結花が返事を書くことは出来ない。それでも、返事がこないと分かっていても、その手紙は一度も休むことなく、結花の手元に届いている。 深呼吸をしてから封を開けた。開けた刹那、ほんの一瞬、父親の空気が封筒からこぼれてくる気がする。月に一度しか味わうことが出来ない瞬間。 決まっていつも二枚、無地の素っ気ない便箋。内容はいつも、過去か、未来の事。現在の出来事にはまるで触れず、結花の事にも触れない。 読み終えた手紙をしばらく見つめた後、封筒に戻したそれを結花は机の引き出しにしまった。乱れていた心がいくらか静まっていることに気づく。心の弦をその手紙に調律されたように、今日の出来事をひとつひとつ冷静に思い出すことができるようになっていた。 「里奈は…」 たぶん、知ったのだろう。自分の過去を。方法は分からないけれど、彼女は自分の過去の話を聞いて、それであんなことまでしたのだ。 あなたから聞きたい。 それは里奈が呟いた言葉。そして、どきりとした言葉。 里奈自身がそれを理解しているのかどうかは分からない。でも、教室で彼女が見せてくれた胸の傷跡を思い出すと、彼女がそれを感じることの出来る人間なんだと結花は思えてくる。 人が積み上げてきた過去は、他人から聞いただけではなに一つ分かりはしないこと。出来事は視点を変えれば、それがどんなふうにでも変化してしまう。 けれど、心を踏みにじらないよう、自分の肌と心を吐露してまで里奈が叩いた心の扉を、結局開けなかった自分。 やっぱり、自分は独りがいいんだろうか。 子供の頃を思い出す。母親は仕事に忙しく、最初に覚えたのは家の戸締まりの仕方と鍵の開け方。それでも寂しいとは思わなかった。それが当たり前だと思っていたから。 その当たり前が人と違うんだと知ったのは、小学校の父母参観日。教室の後ろに並ぶ、見知らぬたくさんの大人。その中に、自分の知っている人はいなかった。 その日は大事な商談があるから。 分かってね、この仕事もあなたの為なのよ。 学校からのプリントを渡した次の日の朝、母親はそう謝った。自分がどんな顔をしていたのかは分からない。でも、それにうん、とだけ頷いた。 理屈で分かってしまう。分かるから、なにも言えない。言い出せない。それに平気だと思っていた。当日、にこにこと笑う同級生の顔を見るまでは。 自分の家の事情を知っていた先生が気を利かせてくれたらしい授業は、かえって苦痛にしかならなかった。教師という職業を、初めて疎んじた瞬間。背後から背中にささる視線と、これ見よがしに聞こえてくる同情の声。子供には分からないと思ったのか、中には自分の母親を誹謗中傷する声まで聞こえてきた。 子供より仕事を選ぶ大人なんて、ろくな人間じゃない。 振り向いて怒鳴りたい気持ち。泣き出したい気持ち。いろんな気持ちをぐっと我慢した。我慢するのには慣れているんだからと、自分に言い聞かせて。 わがままじゃ、いけないの? 人の気配がない家に帰り、自分の部屋で呟く。それが結花の精一杯だった。 翌日から、クラスメイトの態度が露骨に変化した。事情を知った親から、自分と仲良くするように吹き込まれたんだろう。結花はそう理解した。だからこそ、その声を拒んだ。頼まれてなるような友達なら、初めから必要ない。 反応がないものに対して、子供は飽きるのが早かった。誘われる言葉を適当に断っていると、一週間も経たないうちに声を掛けるクラスメイトはいなくなった。 以来、ずっと独りで過ごしてきた。二度とあの日のような気持ちを招かないように。 花梨女子を受けたのは、高等部に寮制度があると知ったからだ。子供の頃から早く自立したいという気持ちがあったので、ちょうどいいと考えて受験し、無事合格した。 けれど、担任になった教師と折り合いがつかなかった。自分の事情を知って過剰なまでに優しく接してくる態度が、お節介という言葉のよく似合う偽善的行動にしか見えない。昔から感じている教師への猜疑心も手伝って、登校拒否が始まる。 母親は仕事で家にいないことが当然だったから、それ自体はとても楽だった。けれど、教師がくることで母親にそれが知れたとき、自分のとった行動に後悔した。 目の前で涙する母親。誰かが自分の前で泣くことが初めてなら、プライド高く、いかにもキャリアウーマンといった感じの母親の涙を見たのも初めてだった。 仕事ばかりで娘の相手をしてやれなかった事を、誰よりもつらく感じ、責めていたのは誰でもない母親自身だったことを知る。自責しつつ涙する母親を見て、もしも自分がもう少しわがままになれていたら結果は変わっていたのかもしれないと、そう思い、過去を思い出して悔やんだ。 「…でも、彼女は違う」 その教師と里奈は明らかに性質が違う。その先に見ているものが、孤独という閉ざされた領域から自分を連れ出すことだとしても、二人の方法は全く別物だった。 周囲から聞き仕入れた情報だけで自分という存在を判断し、可哀想だと同情を示すことで自分の気をひいて、そこから連れ出そうとした教師。 けれど里奈は。 自分の胸に手を当てて、今日、里奈から聞いた言葉を思い出してみる。その言葉は確かにこの胸に届いた。けれど最後までその扉を開けられず、たぶん強がりだった言葉を口にして足早に教室を立ち去った。 恥ずかしかったんだろうか。一瞬、そんなことを思う。 自分という存在をさらけ出せる彼女を目の前にして、本当の自分を見せることを躊躇させた感情の正体。 いつだったか父親からの手紙にそんなような事が書いてあった事を思い出し、結花は引き出しを探って一通の手紙を読み返した。 喜び、悲しみ、怒り、楽しさ。人はたくさんの感情に心動かされ生きている。けれど一人で生きている限り、感じることが難しい感情もある。 自分以外の誰かがいて初めて、生まれる感情。恥ずかしいという気持ちは、誰かが自分を見ているからこそ生まれる想い。 だからもしも恥ずかしいと感じたのなら、自分が誰かに見られているんだと思いなさい。その視線が本当の自分を見つめているからこそ、恥ずかしいのだと。 それは恋と同じく、一人では絶対に感じることが出来ない気持ちだから。 読み終えて、その手紙を持ったまま、結花は鏡台に座った。 鏡の中の自分を見つめ、里奈を思いだし、結花は胸の鼓動が早まるのを感じた。この鼓動を早めている原因に名前をつけようと思ったら、恋になってしまうのだろうか。 よく、分からない。ただ、それは結花が生まれて初めて感じる気持ちだった。 |