■ レインタクト 第7幕<1>
水瀬 拓未様


 里奈が結花の瞳を見てそこに孤独を見いだしたように、その瞳に惹かれ、結花を密かに想い慕う少女がもう一人いる。彼女は結花や里奈の一年後輩でありながら、里奈よりも早く結花の瞳に潜む憂いに心惹かれていた。
 笹木唯。彼女が結花を初めて見かけたのは、まだ彼女が小学生だったころの話。花梨女子学園に入学したてだった結花を偶然見かけたのが、そもそもの切っ掛けだった。
 綺麗な人だと思った。同時に、胸が苦しくなる。その目を見ただけで、立ちつくし、その背中をただ見送ってしまった。
 野良犬のような目。唯には、そんな風に見えた。
 孤独でいることに誰よりも慣れているふりをしている、どこか不透明な瞳。けれど、誰かから優しくされたいと願っているふうにも見えた。
 何も知らずに手を差し伸べたら、きっと吠えられてしまう。
 でも、もしもその頭を撫でることが出来たなら、どれほど幸せなんだろうか。
 想像の中で結花の笑顔を思い浮かべるたび、唯は切なくなった。自分の手のひらを見つめて思う。自分にあの人を撫でることが出来るのか。
 偶然の出会いから数日、ずっと彼女のことばかり考えている事に気づいて、唯は自分の感情が恋なんだと理解した。名前も知らない女性を想うことに、日々を費やす。けれど唯は、その事自体も、そんな自分も嫌いではなかった。
 初めて感じた想い。一人の人に心を支配されるということ。
 春になり、唯は憧れの人が着ていた制服を頼りに花梨女子学園に入学。結花の名前は、すぐに知ることが出来た。再会。遠くから見る結花は、一年前と同じ目をしていた。
 それは、誰も彼女に触れることが出来なかった何よりの証。
 誰も気づかないんだろうか。あの人はあんなにも寂しそうなのに。
 寂しさを感じると共に、唯はそれを理解した。結花の周囲には見えない領域があって、そこには誰も踏み込むことが出来ないのだと。
 声を掛けよう。校内で彼女を見かけるたび何度もそう考え、結局一度も実行することが出来なかった。
 手を伸ばせば吠えられると思っていた自分。けれど、毎日のように見つめて知る。手を伸ばしたところで、きっと彼女はそれに見向きもしないまま通り過ぎてしまうだろう。
 分かるから、余計に声が掛けられなくなった。
 結局、自分が一番可愛いのかもしれない。
 胸の奥でずっと暖めてきた気持ち。それが壊れてしまうかも知れないのが怖い。動き出さなければ終わることがないそれを、自分から始めるのが怖かった。
 せめて、片想いで。
 結花に誰も近寄ることが出来ないからこそ、唯はそれを選んだ。
 解放されずに満たされ続けていくそれは、切なさも同時に生み出していく。けれど唯がなによりも恐れたのは、その始まり。動き出した気持ちは、いつか終わりへとたどり着く。だからこそ、唯はただ想い続けた。
 片想い。それは、始まらないからこそ終わることのない気持ち。
「唯ちゃん」
 中等部の二年になり、新入生から先輩と呼ばれるのも慣れてきた頃、唯は校門で声をかけられた。振り向いてみればそこにはポニーテールを揺らす先輩の姿。
「おはようございます、上坂先輩」
「うん、おはよう」
 唯と里奈は二人とも水泳部に所属していた。けれど、上級生である里奈と唯が親しいのは、同じ部活に所属しているから、という理由だけではない。去年の夏、里奈が部活動の最中に溺れた時、その里奈を助けたのが唯だった。
 以来、里奈は部活以外の場所でも、唯のことを気にかけている。自分を助けてくれたという気持ちと共に、彼女が恵美理と引き合わせてくれたような、そんな気持ちを里奈は唯に対して抱いているのかも知れない。
 当然、唯はそんな里奈の事情を知るはずもない。けれどその一件以来、どこか内向的で人を遠ざけていた里奈の雰囲気が変わり始めたのは感じていた。
 なにがこんなにも里奈を変えたのか。その原因、気にならないと言えば嘘になる。けれど唯にとって里奈はあくまでも先輩であり、その時はそれ以上の存在ではなかった。
「寝不足ですか?」
 雑談をしながら昇降口に向かう途中、口元に手をあてて里奈があくびを噛み殺す。よく見れば目元に精彩がないように思えて、唯が問いかけた。
「…ちょっとね。考え事」
 里奈は笑って、大丈夫よ、と告げる。その笑いは照れ隠しにも見えたし、その考え事、とやらを思い出して苦笑したようにも見えた。
 やがて昇降口にたどり着いたので、唯と里奈は一端別れる。唯が上履きに履き替えると、同じく靴を履き替えた里奈がやってきて、
「あたし、ちょっと寄るところがあるから。じゃあ、またね」
 そう言い残し、手を振って去ってしまった。
 しばらくその背中を見送り、唯は思いだしたように自分の教室へ向かう。寄るところ、という曖昧な言葉が少し気になったけれど、深く考えずに教室の中に入り、自分の席についた。やがて授業は始まり、流されるように午前中の時間が過ぎていく。
 胸騒ぎのような違和感を感じたのは、授業の内容をノートにほとんど書き取れない自分に気づいたからだった。
 今朝見た里奈の曖昧な表情が、かくれんぼをするように思考回路の隅っこでうろうろしている。
「唯、知ってる?」
「え?」
 授業の合間、声をかけてきた友人に振り向く。
「友達から聞いたんだけど、昨日の昼休みに、3年生の教室の方でなんか騒ぎがあったんだって。なんでも二人の生徒が口論したとかなんとか」
「…それがどうして騒ぎになるの?」
 里奈の事を考えていた唯は、3年生、というキーワードが気になって問い返した。
「だって、その騒ぎの片方って、あの並木先輩だよ? 並木先輩、そのあと教室出ていったまま、結局午後の授業には戻ってこなかったんだって。ここのところ問題も起こさなくて静かだったのにね」
 半分予想していた事とは言え、その名前が出てきたことで体が反応してしまう。唯はそれを悟られぬように、そうなんだ、と当たり障りのない返事をした。
 結花の存在は、中等部の間では比較的有名だった。入学したばかりの1年生はともかくとして、2年生や、とくに3年生のほとんどがその名前を知っている。
 唯にしてみれば、そういった噂を気にしたことはない。結花の気持ちは結花にしかわかるはずがないと、そう思っていた。
 やっぱりあの人は、野良犬に似ている。
 結花に関する噂を耳にするたび、唯は初めて彼女を見たときの印象を思い出す。
 犬はなにも悪くないのに、周囲の人間がその存在価値を決めてしまう。そんなことが何度も繰り返されてしまえば、犬は人を信用しなくなり、吠えるようになるだろう。
 吠えた野良犬を見て、人はきっと、野良犬だから、と決めつけてしまう。それが繰り返されれば、犬はきっと尻尾を振ることを忘れてしまう。
 犬を捨てたのは、他でもない人のはずなのに。
「ね、もう一人の先輩って上坂先輩じゃなかった?」
 なんとなく気になって、唯は問いかける。
「え? あ、どうなんだろ。あたしそこまで聞いてないや。…んでも、どうして?」
「上坂先輩同じクラスだから何となくそう思っただけ。分からなかったらいいんだ」
 きょとんとしている友達にそう答えた時、チャイムが鳴った。自分の席に戻る友達を見送り、出しっぱなしだったノートに視線を落とす。
 もう何度も繰り返し感じてきた切なさが、ちくりと唯の胸の奥を刺した。