■ レインタクト 第7幕<2>
水瀬 拓未様


 昨日の放課後、里奈を保健室から送り出した後で感じた不安。その不安の原因、結花のことを話したときの里奈の表情に見え隠れしていたものだと、恵美理は分かっている。
 ただ、それを認めたくない自分がいるのだ。
 同時に再認識する。出会ったときは沢山の生徒の一人でしかなかった彼女に、今はこんなにも自分の一喜一憂が支配されている事を。
 里奈が自分を好きな理由。それは憧れのようなものだと、恵美理は感じていた。
 憧れは恋と似ているけれど、恋とは違う。
 本当の恋を知ったとき、里奈は自分のもとから離れてしまうのではないだろうか。
 里奈という存在を本気で愛しいと感じた瞬間から、そんな自分を嘲笑うかのように、心の奥底で泥のようにうねる不安。恵美理はそれに気づかないふりをしてきた。
 里奈が憧れ、好きだと言ってくれた自分でいるためには、そんな不安を抱えることは出来ないと、悟られぬよう、封をしてきた感情。
 けれどその封が、結花のことを話す里奈の顔を見ているうちに解れた。
 里奈の心の中で結花の存在が大きくなるたび、それが彼女の表情から零れて恵美理の胸を締め付けた。けれど、自分の本心を吐露することで里奈が遠ざかっていったら。それがなにより怖くて、恵美理は里奈の知っている保険医、浅見恵美理で居続けた。
 憧れを維持するために自分を偽る。本当の自分を見せる切っ掛けを見失った時点で、それは恋に昇華することはなくなってしまうのだろうか。
 恋に似ているけれど、恋とは違うもの。
 ただ恵美理は、里奈が離れていってしまうことだけは避けたかった。結花のことを話す里奈に頷き、そんな彼女に先生としての意見を述べた昨日。
 本当にあれでよかったんだろうか。
 不安は、今日になっても消えなかった。むしろ、紙を焦がす炎のようにじわじわと広がっているような気さえしている。
「おはよう、先生」
 だから、授業が始まるより早く保健室にやってきた里奈の顔を見ても、恵美理はそれを素直に喜びへと変えることが出来なかった。
 結花のことを話にきたのだと分かるから。
「先生、いま大丈夫?」
 後ろ手にドアをしめた彼女が、いつものように自分の側に近づいてくる。
 恵美理は今すぐにでも彼女を抱きすくめ、そして押し倒したい衝動に駆られた。誰にも渡したくない。その気持ちを、もっとも単純な方法で具現化したい気持ち。
 同時に、そんな事を考えてしまう自分に畏怖に似たものを覚えた。保険医としての自分が、その衝動を抑え込むように唇を軽く噛む。
 ただ、分かっているから否定は出来なかった。里奈を誰にも渡したくない、その意志は紛れもない自分の本心。だから、余計に怖かったのかもしれない。
「授業が始まるまでよ。私のせいで遅刻させたくないもの」
 結局、そう答えて笑った。見つめれば、出会った頃とは比べるまでもなく綺麗になった里奈が、にこり、と微笑んでいる。
 その瞳はいま、結花を見つめていたいのだろうか。
「…それで、話って言うのは並木さんのことなんでしょう?」
 自分の正面にある背もたれのない丸椅子に座った里奈へ、単刀直入に切り出す。里奈としてもそれを訪ねられることを分かっていたのか、
「うん…」
 と、遠慮がちに頷いた。
 わずかにうつむく顔。その頬が照れたように見えて、恵美理の胸が痛んだ。
「その様子だと、昨日の放課後、並木さんと会えたんでしょう?」
「…会えた。うん、会えたけど…でも、駄目だった。結局、彼女の口からはなにも話してもらえなかった」
 静かに頷いた里奈は、昨日のことを思い出したのか、ちょっと間をあけながら呟いた。
 忘れられない。自分の呟いた言葉でも、自分を見つめる結花の瞳でもない。ただやけに紅に染まる教室の中で、去り際、自分の名前を呟いたあとの結花の笑顔。
 それがずっと脳裏から離れなくて、里奈は昨日眠ることもままならなかった。
 …ありがとう、里奈。
 あの一瞬、結花の本当の声を聞いた気がした。抜き身の刃物のようだと、そんな印象を他人に与える彼女の言葉とは思えないほど、柔らかい響き。もしもあれが本当の結花なんだとしたら、里奈はそんな彼女ともっと話がしてみたかった。
 あと一歩だったのかもしれない。けれど、その一歩を踏み込むたびに結花が一歩遠ざかってしまったら、結局その差はどこまでいっても縮まらない。そもそも、その一歩をどう踏み出していいのかすら、里奈には分からなかった。
「…先生。先生はどうしてあの時、あたしを受け入れてくれたの?」
 顔をあげ、恵美理を見つめる里奈。その瞳が、自分ではなく結花に向けられている気がして、恵美理は少しだけ寂しさを覚えた。
 だからこそ、その瞳を見つめる。
「あの時、私は自分の素直な気持ちに従っただけよ。なにも特別なことはしてない」
 今も忘れられない。水着の下から現れた傷跡と、意識を失ったままの無防備な顔。傷跡の告白。想像することしかできない、その想像さえ及ばないであろう、幼い頃から繰り返された苦悩の記憶。
「…それに、受け入れてたのは私じゃないもの。里奈ちゃんが私を受け入れてくれたからこそ、私はあの時、里奈ちゃんを抱きしめることが出来たのよ」
 手を伸ばし、やがて涙をこぼした里奈の体の震えを、恵美理は覚えている。彼女を抱きしめるための腕。それを里奈が払いのけたら、きっと今の関係はなかった。
 里奈が、自分の傷跡のことを話してくれなければ。
「あたし、が…」
 自分の言葉と聞いて自問するように呟く里奈に、恵美理は頷いて見せる。
「里奈ちゃんは、並木さんを見て何かを感じたんでしょう? だから、放っておけないって思った。私も…」
 同じよ。そう言おうとして、恵美理は言葉を呑み込んだ。それを言ったら、里奈が自分から離れていってしまう気がして言えなくなった。
 自分も、始まりは生徒の一人である里奈のことが放っておけなかっただけなのかもしれない。けれど時間を重ね、想いを重ね、肌を重ねて、彼女を押し倒したい衝動に駆られるほどにそれは自分の中で揺るぎない感情になった。
 今はまだ結花も里奈も、互いをうまく受け入れることが出来ないのかもしれない。けれどもし、ふとした切っ掛けで気持ちの重なるタイミングがあったら。
「…先生?」
 押し黙ったままの恵美理が気がかりで、里奈が心配そうに問いかける。
「なんでもないわよ、里奈ちゃん。…それより、もうすぐ授業なんじゃない? もしまだなにかあるなら、昼休みにでもいらっしゃい」
「あ、うん」
 保健室の壁にかかった時計を見て、里奈は立ち上がった。
「先生」
 保健室のドアに手をかけて振り向いた里奈に呼ばれ、彼女を見る恵美理。
「ありがとう、先生」
 くるり、と踵を返して保健室を出ていく里奈。ポニーテールが揺れると、束ねられた髪と一緒に白いリボンがふわりと視界を横切った。
 進級祝いとして里奈にプレゼントしたリボン。それは髪を束ねる布でしかない。けれど、恵美理の中でそれは自分と里奈を結びつけておくための、白い絆だった。