■ レインタクト 第7幕<3>
水瀬 拓未様


 毎朝、ほぼ決まった時刻に学園へ通学していた結花は、里奈とのやりとりがあった次の日も、その予定を変えることはなかった。母親が出かけた後の、誰の気配もない家を出た結花が自分の教室につくのは、まだ生徒もまばらな朝早い時間である。
 授業が始まるまで、結花は天気に関係なくずっと窓の外を見ていた。たいして面白い景色が広がっているわけではないけれど、それでも、教室内よりはいくらか好ましい。
 周囲の耳に入らない程度の話し声を遠ざけるには、これがちょうどよかった。
 昨日の騒ぎが原因で、教室は異様な緊張感に包まれている。教室のドアが開くたびに生徒はそちらを窺い、それが里奈でないと分かるたび、小さな溜め息が漏れていた。
 余計な心配をしてる。
 結花はざわざわと騒音のような話し声を交わすクラスメイトを一瞬横目でとらえた。
 内容は聞こえないけれど、分からないわけがない。けれど、そんな噂話も心配も余計なお世話だし、必要のないものだ。
 里奈が教室に入ってきたとしても、昨日の昼のような騒ぎにはならない。結花にはそれが分かっていたし、もちろん、自分から騒ぎを起こすつもりもなかった。
 推理や憶測でしか出来事を知ることが出来ないなら、噂なんてやめればいいのに。
 昨日の夕暮れ、この教室での出来事は、自分と里奈しか知らない。結花はそれを思いだし、耳障りな騒音を発生させる周囲の生徒を、心の中で皮肉った。
 同時に、何故こんなに苛ついているのかを不思議に思い、それに思い当たる。
 里奈が絡んでいるからだ。
 今までも、こうやって噂話が発生することはあった。でも、それはほとんど憶測の域を出ないものだったし、放っておけばいつのまにか飽きられて忘れられていた。
 自分に関してどんな噂をたてられようと、結花は気にもとめなかった。
 けれど、今回はちょっと事情が違う。
「…あ」
 そうか。
 苛つく自分の気持ちを整理し始めた結花は、気がついて思わず声を漏らす。
 この感覚は前にも一度感じたことがあった。小学生の頃の父母参観日、教室の後ろで自分の母親の噂話をする同級生の親たちに感じたそれと同じだ。
 あの頃に比べれば少しは成長したと思っていたのに、こういう気持ちのコントロールだけは上手くならない。
 昨日の昼休みだって、里奈を怒鳴りつけるつもりはなかったのに。
 その結果、周囲は里奈の噂をしている。それを聞いて落ち着かない自分。もともとは自分に原因があるのだから、それを思うと自分に憤りを感じる。
 本当に子供だ。そう自分を評価して、結花はわずかに唇を噛んだ。
「あっ…」
 教室、廊下側の席で声がした。騒がしかった教室が、一瞬で静まりかえる。不自然な静寂は、見るまでもなく、教室に里奈がやってきたことを示している。
 窓の外を見ていた結花は、その背中に視線を感じた。いくつもの視線。その中には、里奈のものもある気がする。
 今振り返ってもどんな顔をすればいいのか分からない。だから結花は、その視線に気づいていても里奈のほうへ顔を向けなかった。
 制服の衣擦れの音すら聞こえそうな教室。静かすぎる教室内を歩き、里奈は自分の席に向かい、そして椅子に腰掛けた。
「おはよう」
 ちょっとわざとらしいかもしれない、と内心苦笑しながら、里奈は隣の席に座るクラスメイトに声をかける。
「あ、うん…おはよう」
 反射的に挨拶を返すクラスメイト。その声で、止まっていた時が動き出したかのように、教室内のざわめきが戻ってきた。
 同時に、今日一日の授業の始まりを示すチャイムの音。やや遅れてやってきた教師の登場に、教室は表層的にはいつもの落ち着きを取り戻した。
 結花は授業中、普段よりも視線を感じた気がする。本当に多いのか、ただ過剰に反応しているだけなのかは分からない。けれど、人の視線は確実に入り込んでくる。
 やがてやってきた昼休み。結花はあらかじめ決めていた通り、素早く席を立つと教室を出る。里奈はそれを視線で追いかけただけで、結花を追いかけたりはしなかった。
 教室を出た結花は、購買部へ向かう。午前中ずっと他人の視線に晒されていたので、昼食ぐらいはゆっくりと静かに食べたい。里奈と顔を合わせる気まずさもあったけれど、購買部が混み合わないうちに買い物がしたい、という理由から早めに教室を出た。
 購買部は一階にあるので、上級生になればなるほど不利になる。とりあえず普段よりも歩みを早めつつ、結花は階段を下りていった。どこで食べるかは考えていないけれど、とりあえず昼食を確保してから決めても遅くはないだろう。
「っ…!」
 そんな考え事をしていたせいか、結花は階段の踊り場で誰かとぶつかった。幸い、どちらにも勢いがなかったので、転ばず、よろけただけで済んだ。
「ごめ…」
 ぶつかった相手、制服のリボンの色から一年下の後輩だと分かる少女は、謝ろうとしたらしいが、何故か結花の顔を見つめて固まってしまった。
 二年生が私の顔と噂を知っていても、おかしくないか。
「…ごめんね。怪我はないかしら」
 初対面の相手が自分の事を、しかも大抵は良くない噂によって知っている、ということに結花は慣れている。だから初めて見る彼女のそんな反応を見ても、結花は別段おかしいとは思わなかった。なるべく優しい声で、目の前の少女に声をかける。
 けれど、目の前の少女が固まってしまった本当の理由は結花の想像とは異なる。
 彼女、笹木唯は、いきなり自分の思い人とぶつかってしまった、という事実に気が動転していたのだから。
「あ、はい、怪我はないと思います。よろけた、だけ、ですから」
 途切れ途切れの返事。妙な子だな、というのが結花の第一印象だった。そして、初対面の相手を妙だ、なんて思う自分に内心苦笑した。
「考え事をしていたものだから、前の方に注意が行かなくて。ごめんなさいね」
 自分を見つめて強張っている唯に、結花が微笑むようにして小さく頭を下げた。その笑みには、妙な子だ、なんて思ってしまったお詫びも込められている。
「いえ、私の方こそ、その、ちゃんと前を見て歩いてなかったので…」
 ずっと、放心するように結花の顔を見つめていた唯は、その微笑みでようやく我を取り戻したのか、謝るような仕草でうつむき、第一声よりも幾分落ち着いた声を出した。
「お互い様、なのね。じゃあ、私は購買に行かないといけないから」
「あ、はい」
 自分が頷くと、結花はそのまま階段を下りていく。追いかけようか、と一瞬思いついた考えを、唯は慌てて却下した。
 追いかけて声をかけたら最後、我慢できなくなるに決まっている。
 片思いで良いと、そう決めたのは自分だ。動き出さなければ壊れないと、そう決めてずっと我慢してきたのに、それを今になって急に始めるのは、なんだか不安だった。
 枷を外したら最後、自分の気持ちは結花に迷惑をかけてしまう気がする。
 唯は結花の姿が見えなくなるまでその場で立ちつくしていたが、やがて思い出したように階段を上り始める。もともと、里奈に会うために3年生の教室に向かう途中だった。
 里奈に、昨日の昼休みの事を訊いてみよう。朝、友達の話を聞いてからどうしても気がかりだったそれを解決しようと、思い切って里奈のところへ向かう途中、唯は結花と出会ってしまった。
 話しかけられたときの声が、まだ耳に残っている。
「…先輩」
 見るだけで満足していたはずなのに、今は声をもっと聞きたいと思う自分がいる。もっと声が聞きたい。話がしたい。そして、名前を呼んで欲しい。
 きしきしと、軋む枷の痛みが切なさとなって胸を締め付けた。知らなければ、それで満足できていたはずなのに、知ってしまったらそれを欲しがってしまう。
 なにも恥じることはないのかもしれない。それは人が本来持っている欲求。
「希望は…罪」
 昔聞いた言葉を、唯は不意に思い出し呟いた。