■ レインタクト 第8幕<1> 水瀬 拓未様 希望は罪。確か子供の頃に聞かされた。人は叶うかもしれないという可能性がわずかでもある限り、それを捨てることが出来ない弱い生き物だと。 心許ないとき、どうしてもなにかにすがってしまう。 それが自分の根底にあるからだろう、自分が片想いのままでいいと思うのは。 けれど、どこまでが希望で、どこからが絶望なのか。誰もその境界線は教えてくれなかった。 自分から続く気持ちの道は、結花へと続く途中で霧がかかるように見えなくなる。 そんな暗雲のように先の見えない道を突き進むことが出来る勇気をくれるのが、恋や愛なんじゃないだろうか。 だとしたら我慢できている自分は、本心から彼女を好いてないのかもしれない。 里奈の元へ向かおう、と思っていた唯の足が重たくなった。足を動かそう、というたったそれだけの命令が神経まで届いてくれない。 階段の踊り場で手すりにもたれかかったまま、動けずに時間が過ぎる。 心の中が奇妙な感覚で満たされていく。今まで、結花を遠目で見ていた自分の切なさをせせら笑う、そんな感情。 憧れを勝手に片想いに変えて、自己満足していただけじゃない。 心の中で声がする。 結局自分が可愛いくせに。終わらない気持ちで満足している。 それがどんどん大きくなる。心の中で、圧迫されていた気持ちが声を上げていた。 抑圧されていた感情。押し込めていた自分の本心。もう一人の自分の声が、ここぞとばかりに染み出してくる。 思わず、耳をふさぐように頭をかかえた。けれど心の声はとまらない。 知っている。分かっている。聞きたくないのは、それが紛れもない自分の本心だからだ。怖さや寂しさという土嚢を積み上げ、塞き止めてきた自分の欲。 結花に近づきたい、話がしたい、笑顔が見たい。そして、その髪を撫でたい。 我慢してきたそれが、さっきの衝突でもろくも崩れた。 入学してからずっと結花の瞳は変わらなかった。それは知ってる。きっと誰よりも結花の事を気にしていたから知ってる。彼女はずっと、微笑む事なんてなかった。 なのに、さっきのあの笑顔は。 氷のように、刃物のように。触れることすら躊躇してしまう雰囲気はなく、そっと微笑んだその顔。どうしてそんな顔を自分に見せてくれたのか。 自分のことを気に入ってくれたからなんて、そんな淡い期待は抱かない。結花には誰も近づくことが出来ないと思っていたし、自分もその例外ではないと唯は思っていた。 誰かが彼女に触れた。 誰も近寄せまい、そんな雰囲気をかたくなに通してきた結花の境界に、誰かが踏み込んだに違いない。 もしくは、結花が自らその境界の中に誰かを入れた。 「…」 今まであれだけ騒々しかった頭の中が、急に静まりかえる。同時に思い出す、今朝、友達から聞かされた喧嘩の話。 経緯は分からない。けれど、誰かが結花の境界に踏み込んだのだろう。結果として結花は、それを受け入れた。 それはおそらく、その喧嘩の相手。 「あれ?」 声がして唯が階段の上の方を見上げると、そこに里奈がいた。 「あ…」 本来の目的の相手がいたことで、巡っていた思考から現実に引き戻される唯。里奈は軽く頭を押さえている彼女の様子を見て、足早に階段を駆け下りた。 そのままのぞき込むように、背の低い唯に視線の高さを合わせる。 「どうしたの? 立ちくらみ?」 「いえ、少しぼんやりしてただけで…。もう大丈夫です」 本当の理由を言えるはずもなく、唯は里奈の顔を見ながらそう答えた。 「そう、ならいいけど…。でも、こんなところで何してたの?」 こんなところ、という言葉を里奈が選んだのは、そこが3階と4階をつなぐ階段の踊り場だったからだろう。昼休み、2年生である唯がこの場所に立っている、ということは、少なくとも4階に用事がある、ということになる。 「えっと、その…先輩に聞きたいことがあって」 「あたしに?」 相手からやってきたことに運命的なものを感じて、唯は素直に切り出すことにした。結花の微笑みが脳裏をちらつくけれど、それを落ち着ける意味でも、ここは昨日の昼休みにおきたという喧嘩の事を解決しておきたい。 「あの、昨日の昼休みに並木先輩が口論してた、って聞いて…。それで、相手が誰なんだろうと思ったんですけど…上坂先輩なら同じクラスだから知ってるかなって」 「その事…もう噂になってるんだ」 呟く里奈は一瞬、表情を曇らせる。それに気づき、唯は言葉を選んで問いかけた。 「もしかして、先輩だったんですか…?」 「…そう」 少し迷ってから、里奈は頷いた。迷ったのは、自分がその口論の相手だという事を認めたくないから、ではない。どうして唯がわざわざそんなことを確かめに来たのか、その理由が気になったからだ。 普通の生徒なら、遠巻きに噂話をしたとしても、結花のほうへ近づこうとはしない。なのにわざわざ確かめにきた唯に、里奈は少しだけ親近感を抱いた。 もし、唯も自分と同じような理由から結花に近づこうとしていたのなら。 里奈は唯を見つめ、そんなことを思い、そして嬉しくなった。もし唯が自分と同じような理由から結花のことを想ってくれているとしたのなら、それは自分以外にもあの寂しい瞳に気づいた者がいたという事だ。 けれど、そんなことを思う里奈を見つめる唯の胸の奥には、この人が結花の領域に踏み込んだのだという確信が、嫉妬心を伴いながらちらついていた。 恵美理と引き合わせてくれた、という感謝の意識で里奈が自分を見ているという事を、唯は知らない。けれど同時に、結花に対して特別な感情をもっている唯の気持ちを、里奈は知らない。 この時点でお互いはまだ、水泳部の先輩と後輩でしかなく。 「あの」 そんな二人が、異口同音に声をかけた。互いの微妙な距離感が、わずかにその場を緊張させる。駆け引きなどではなく、どちらかといえば、それは遠慮のようだった。 唯と結花の接点があまりに不透明なので、どう切り出せばいいのか分からない里奈。同じように、里奈がどうして結花と口論するような関係になったのかが分からない唯。 学年が違う、という部分はあるけれど、同じ部活に所属している事もあって、里奈としては唯のことをそれなりに知っていると思っていた。 でも、それは自分の思いこみに過ぎなかったのかもしれない。結花というフィルターを通してみれば、唯は下級生の一人でしかなく、彼女がどう思っているのか、どんなことを考えているのかも里奈には分からない。 「えっと…唯ちゃん、お昼の予定決まってる?」 「いえ、一人で食べようと思ってたので…特にこれといって」 「じゃあ、良かったら一緒にお昼食べない? ここでこうして話すのも…あれだし」 「…はい」 朝の会話からすると、どこかぎこちない言葉のやりとり。それでも、自分を誘ってくれた里奈の言葉に、唯は頷いた。 |