■ レインタクト 第8幕<2> 水瀬 拓未様 唯と里奈が食堂に向かう頃、結花はそのドアの前に立ってノックを終えた。 「失礼します」 声をかけて中に入る。微かに消毒液の匂いがする白い室内は、清潔という言葉を連想させた。ここにくるのはものすごく久しぶりで、結花は室内を見回す。 「並木さん…」 結花を見つけて、椅子に腰掛けていた彼女がわずかに腰を浮かせた。驚いた、というよりもまるで幽霊でも見つけたような顔の恵美理が、結花を見つめている。 「お久しぶりです、先生」 「久しぶりも、何も…」 小さく会釈した結花に、恵美理は言葉を失う。こんな顔で笑う子だったろうか、という驚きや、里奈が話してくれた出来事が脳裏に広がり、うまく言葉が出てこない。 何より、恵美理の中の結花は、最後に会った2年前のままで。思春期の少女が二年会わないで居るとどれほど成長するのかという、その見本がまさに目の前に立っていた。 「怪我とかじゃないんです、先生。ただ、ここで食事をとらせてもらいたいんですけど…駄目ですか?」 言いながら、結花は恵美理の前にある椅子に腰掛けた。手には購買部で買ってきたサンドイッチとパックのウーロン茶が握られていて、結花はそれを恵美理に見せて、自分の言葉が冗談ではないことを証明してみせる。 「なにか事情があるならかまわないけれど…」 「ありがとうございます」 恵美理のかまわない、という言葉を聞いて、結花はさっそく袋を開封して、サンドイッチを取り出した。それを口にくわえて、今度は膝の上のウーロン茶のパックに、ついていたストローを差し込む。 そんな結花の様子を、恵美理はちょっとあっけにとられたまま見つめていた。目の前で食事を始めた結花は、恵美理にとってなんだか現実味がない。突然の訪問は、恵美理の思考を完全に止めてしまった。 「…先生?」 そんな、自分を見つめる視線に気づいて、結花は顔をあげた。自分を見つめる恵美理の表情。その顔の理由が、結花には分かる。 「今日ここに来たことに、他意はないです。ただ、落ち着いて食事が出来る場所が他に思いつかなくて。校内のどこにいても息がつまりそうだったから」 恵美理の警戒心を解くように、結花はわずかに微笑んだ。 不思議なくらいに、笑うことが出来る。それがなんだか自分でもおかしいと思う。そのおかしいという気持ちが、さらに笑みに笑みを重ねた。 里奈の気持ちに触れ始めてから、わずかにズレ始めた自分の中の何か。 「先生なら知ってるでしょ? 校内の噂」 サンドイッチをかじりながら、結花は問いかけた。 自分が里奈と喧嘩をした、という話がどの程度噂として広がっているのか。それは分からないけれど、購買部でサンドイッチを購入している間に周囲から感じた視線やざわめきからするに、下級生たちもすでに知っている様子だった。だからこそ結花は、安心して食事出来る場所として、この保健室を選んだのである。 その場所に、彼女がいると知っていても。 「それが、思ったよりも広がっているみたいで。いつごろ収まるかは分からないけど、昨日の今日だから、せめて今日のお昼ぐらいは静かに食べたくてここにきたんです」 そう言って、結花は恵美理の顔を見る。この説明で伝わるだろう、と思っていた結花だが、恵美理の表情にまだ曇りがあることにわずかに首を傾げた。 「…先生?」 「あ、うん。噂は聞いてる。昨日のでしょう?」 問いかける結花の声にはっとして、恵美理はようやくそれだけ返した。そして、自分の考えが悟られないよう、恵美理は自分から問いかけを続ける。 「でも、理由はどうあれ……よくここにくる気になったわね」 それは、彼女がここに現れた時から一番の疑問。 「私、並木さんにはずっと嫌われたままなんだと思ってた」 恵美理はそう言って、一つ目のサンドイッチを食べ終えた結花を見る。 この学園に保険医としてやってきて初めて名前を覚えた生徒。2年前の彼女、12歳の頃の並木結花は、目の前の椅子に座り、そしてずっと黙っていた。 「二年前は確かに嫌いだった、と思います。でも、それが先生に対しての感情だったのか、大人に対しての感情だったのか、今はもう分かりません」 恵美理の言葉で、二年前、この保健室での出来事を思い出し、結花は苦笑する。その言葉に嘘はない。実際、あの頃の自分は、教師や先生という肩書きのついている大人が皆同じに思えて、先入観で嫌な相手だと決めつけていた。 思えば二年前、結花の担任だった教師は純粋に自分の事を心配して、家まで迎えに来てくれたのかもしれない。けれど結果、母親に不登校が露呈してしまった事で、結花はその出来事を引き起こした担任を最後まで好きになることが出来なかった。 嫌いとか好きとか、それ以前に。自分から自分に近づく相手を拒絶していた。 全てが偽善に見えていた頃。周囲の行動が、自己満足にしか見えなかった頃。 「…それに二年前、私は結局先生と一言も口をきかなかったじゃないですか」 そう言って、結花は改めて正面に座っている恵美理の瞳を見る。 当時、この学園にやってきたばかりだった恵美理は、結花の担任だった教師から直接、結花の事を相談された。話を聴いて、結花と一度話がしてみたい、と思った。幸い、登校拒否をしていた結花は身体測定をまだ受けておらず、それを口実にすることで、恵美理は結花とこの保健室で、二年前、二人きりで会うことが出来たのだ。 音のない保健室で形ばかりの身体測定が終わり、そして向かい合い座る。恵美理は懸命に結花の心を、そして閉ざした口を開いてもらおうと、語りかけた。 けれど結花は結局一言も喋らずに、保健室から出て行った。 「…覚えてる。私、ショックだったのよ」 二つ目のサンドイッチを食べ始めた結花に、恵美理がため息をつくようにそんな言葉を漏らす。それは独り言のようで、結花は黙ったまま、その先の言葉を待った。その気配を感じ取ったのか、恵美理は椅子の背もたれに寄りかかるように、結花から視線を外し、天井を見上げる。 少しの間があって、それから恵美理は呟いた。 「並木さん、魔法って信じる?」 「え?」 突拍子もない言葉に、結花が思わず聞き返す。わざとそんな言い回しをした恵美理は、結花の反応が予想通りで、ちょっと嬉しそうに笑った。 「学生時代、私ね、ちょっとふさぎ込んでいた時期があったの。死、という選択肢が日常的に存在していて、でもそれを選ぶことが出来なくて、結局なにも出来ずに、なんとなく日々を過ごしてた。そんなとき、私を救ってくれた人がいたの。それが魔法使い」 「…」 恵美理の話に、結花はサンドイッチを持っていた手を膝の上に置いた。 「その魔法使いは、白衣を着てた。そして、ふさぎこんでいた私の殻を、言葉だけで打ち壊し、誰も見向きしなかった私に、手をさしのべてくた。その人の話は本当に魔法のようで、私に勇気を授けてくれたの。…私は、その人に強く憧れた。自分もいつかこうなりたい、誰かを救えるようになりたい、って」 「…先生は、だから保険医になったんですか?」 結花の疑問。それに対して曖昧に頷いた恵美理は、言葉を継いだ。 「この学園に保険医としてやってきた頃、私はすごく浮かれてたの。私にとって、白衣はまるで魔法使いの杖で、これを着ている自分はあの人と同じような奇蹟が起こせると信じてた。だから、並木さんの話や事情を聴いたときに、私はあなたのことを心配するのではなく、そういう悩みをもっている生徒の存在に興味をもった。その生徒の悩みを聴き、相談に乗ることで、自分は自分が憧れていたあの人に近づける……なんて、馬鹿な事を本気で思ってた」 自嘲するようにそう言って、恵美理は結花に視線を戻す。 「結果は、並木さんもよく知ってるとおり。私たちの間には、一言の会話もなく、あなたは私を見据えてからここを出て行った。白衣は魔法使いの杖なんかじゃなく、浮かれていた私は、なにも出来なかった」 「それは――」 「見抜かれたんだ、そう思った」 言いかけた結花の言葉を遮り、恵美理は話を続ける。 「あなたの出て行ったこの場所に一人残されて、それで私はようやく自分が浮き足立っていた事に気づいた。白衣を着ただけじゃ魔法なんて使えない。自分が憧れていたのは、保険医という肩書きではなくあの人自身だったことを思い出した」 二年前、結花は一度だけ自分を見つめた。その瞳を、今でも恵美理は忘れない。胸を射るような視線は、あなたのしている行動は偽善であると告げていた。 「あの日、私は、あなたのためでなく自分のためにあなたを助けようとしていた。自分を満足させたい、憧れへ近づきたい。そんな気持ちからあなたを呼び出し、そしてこの椅子に座っていた。その浅ましさを、きっとあなたが見抜いたんだと思ったのよ」 恵美理は一息でそこまで話すと、溜め息をつくように呼吸した。その告白は空気に染みて、浸透するように室内へ広がっていく。 ずっとずっと、恵美理が抱え込んできたもの。それをなんと呼べばいいのか、結花は分からない。もしこれが後悔ならば、独白は懺悔になるのだろうか。 「なんで、急にそんなこと言うんですか」 だから問うしかなかった。 「…今伝えておかないと。こんな機会、二度はないかもしれないから。ずっと言えなかったけど、私はあなたに感謝してたの」 この白衣を着て、初めて接した少女との出来事。それが知らず自惚れていた自分を目覚めさせてくれた。 その名前も、あの視線も、けして忘れたことはない。 「だから、ごめんなさいね」 予期せぬ言葉。呟きが耳に届いて、結花は恵美理を見つめた。 「上坂さんに並木さんの事を頼んだの、私なの」 ぎし、という軋みが胸の奥から聞こえる。それが壊れる音だとするなら、せり上がってくるその感覚を、結花は確かに知っていた。 |