■ レインタクト 第8幕<3> 水瀬 拓未様 自分の知らないことを知っている人と出会うとき、感じるものは尊敬だった。けれどその知らない事が好きな人に関するものだったら、感情は嫉妬と羨望に似る。 里奈の口から語られた事の顛末。予感していたものが現実になった瞬間、唯にとって目の前の相手は水泳部の先輩ではなくなった。 一週間ずっと昼食に誘った事。断られ続けてもそれを続け、ついに一緒に食事をしたこと。知らずにいた結花の噂。昨日の騒動と、そして知った結花の過去。 ただ遠くから焦がれ見つめ続けているだけの唯が知ることの出来なかった結花がそこにいて、それが嘘ではない証拠に、先程知った結花の笑顔が脳裏でちらつく。 里奈の話を聞いているうち、唯は何度も耳をふさぎたくなった。結花の事を話す里奈はとても嬉しそうで、それでいて照れているように見えた。 自分も結花のことを想うとき、あんな顔をしていたような気がする。 「好きなんですか? 先輩は、先輩のことが」 だから、唯がようやく口に出来たのはそんな言葉で。その声色の持っていた切迫した雰囲気に、里奈はじっとこちらを見つめている唯の視線に気づく。一口も手をつけられていない唯のランチメニューが、彼女がどれほど自分の話を真剣に聞いていたのかを表しているような気がした。 「好きかと聞かれれば好きよ。でなければ、声をかけなかった」 「私が聞きたいのは、そういう好きじゃありません」 ぐっと踏み込むように、まなざしの色が深くなる。威圧感とは違うけれど、唯の口調は冗談を許さないものだった。 「…私、ずっと並木先輩の事を見てました。そもそもここを受けたのだって、並木先輩と同じ制服が着たかったからです。何年も前から、ずっとあの人だけ好きでした」 一番最初に伝えるのは結花本人だと、そう決めていながらも封印され続けていた気持ちの発露。昨日までは、この気持ちの枷が取れるだなんて思ってもいなかったのに。 「見つめ続けたから知ってます。並木先輩は、あんな風に笑う人じゃなかった」 知らなかった笑顔を見た。憧れていた、恋い焦がれていた人の笑顔。数年見つめ続けて、ただの一度も微笑まなかった人が、すれ違いぶつかっただけの自分に見せた顔。 唯にとって、彼女でなければならなかった理由。 「だから、もし上坂先輩があの人のことを好きなら―――」 そこまで一気に口にして、唯は口をつぐんだ。どこか嬉しそうに結花のことを話す里奈の表情が、自分でも驚くほどあっけなく、ずっと蓋をしてきた気持ちを表に出させた。 敵対心なんだろうか。 自分の知らないあの人を知っている相手への嫉妬。知りたかったという羨望。片想いで終わるはずだった気持ちのくすぶりに投げ込まれた火種。 たぶんなんだって、溜め込んでいるものを開放すれば反動はやってくる。伸ばしたゴムのように、指で押さえた蛇口のように。 「あたしも、結花のことは好きだよ」 まくしたてるように早口で自分の想いをぶつけられて、それでも里奈は応えた。 「でもきっと、唯ちゃんの好きとは違う」 それは本心で、だから里奈は嬉しかった。 「唯ちゃんに問われるまで、意識したことなかった。だから、絶対とはいえない。でも、あたしとって一番大切な人は、別にいるから」 先刻の階段での会話から、ずっと思っていた。結花のことを気遣っている存在が自分だけじゃないということ。それが本当だとしたら、それはどんなに嬉しいことか。 だがそんな嬉しさなんて、身勝手なものだったのだと知らされる。 「…誰ですか」 間を空けず問い返す唯の声は、里奈の知らない声だった。威嚇するような、聞いているだけで気圧されてしまいそうな響き。 「先輩の大切な人って誰ですか? それを聞かないと、信じられません」 里奈の目の前にいる少女がどれほどに結花を思っているのか。唯の口から言葉が発せられるたび、それが里奈の心を縄をかけるように囲い込んでいく。 恵美理と触れ合ったことで、自分の中に様々な気持ちが生まれた。そんな自分になってようやく、里奈は結花の瞳に気づいた。 けれど唯は違う。ただ一度、見かけただけだ。けれど、そんな出会いと呼べないすれ違いからずっと、唯は結花だけを見つめ続けてきた。 同じクラスという訳でもなく、共通項といえば同じ学園の生徒である、というただそれだけ。そんな、この食堂の全員に当てはまってしまう共通項でも、唯にとっては自らこの学園に入学することで手に入れた大切なものだ。 どれだけ想っているか、それを数値化して比べる事なんて誰にも出来ない。出来ないからこそ、それがどれだけ大きいのかを感覚で理解してしまうことがある。 無言のまま、自分をぐっと見つめる瞳の強さは唯だけのものじゃない。結花のことを想うから、その感情を宿すからこそ現れる強さ。 「あたしの大切な人は、先生」 呟き、里奈は乾き始めた唇を舐める。誰にも言わないと思っていた関係。 「保険医の、浅見先生」 「…浅見、先生?」 聞き返した唯の言葉に先程までの強さはなく、その脳裏には、ややあって保健室にいつもいる白衣の女性の姿が浮かび上がった。 「ちょうど去年の夏頃。溺れたあたしを唯ちゃん、保健室につれていってくれたよね。その時、あたし先生に救われたんだ」 「あ…」 言われて、唯には思い当たることがあった。ある時期を境に、それまであまり親しくなかった里奈によく声をかけられるようになった事。いままでどこかふさぎ込み、他人をあまり寄せ付けなかった雰囲気の里奈が、徐々に明るくなっていった。 思えばその時期は、里奈が溺れ、それを自分が助けて保健室に連れて行った時期と重なる。 「だから―――あの頃から私に親しくしてくれたんですか」 確信めいた唯の呟き。それを否定する言葉は返ってこなかった。 自分はただ、溺れている部活の先輩を助けただけだ。その結果、保険医の先生となにがあってもそれについては関わりがない。だというのに、勝手に先生と引き合わせてくれたのは彼女のおかげだ、みたいに感謝されて親しくされていただなんて。 しかもその相手は今、自分の大好きな人の笑顔すら手に入れて。 里奈に対して憧れがなかった訳じゃない。水泳部での里奈は代表に選ばれるほど優れた選手で、それは水泳部に所属している部員にとって誇れるものだった。 だからこそ、先輩として慕っている部分もあったというのに。 「…もういいです。事情は分かりました」 椅子から立ち上がり、食べなかったランチメニューのトレイを持つ唯。 この人が全てにおいて悪い訳じゃない。それは分かっている。分かっているからこそ、これ以上一緒にいたらあることないこと言ってしまいそうな自分が怖かった。 偶然同じ水泳部で、溺れたとき、偶然自分が一番近くにいた。彼女と結花が同じクラスなのもきっと偶然で、だとしたら自分と結花の出会いそのものも偶然かもしれない。 だというのに、そんな偶然ばかりがいつのまにか自分の周りで折り重なって、今、ずっと誰にも明かすはずがないと思っていた自分の気持ちを発露させた。 トレイをさげ、早足で食堂を出ると校舎にはほとんど人がいなかった。昼休みが始まってまだ20分も経っていないから、それは当たり前といえば当たり前だ。 人影まばらな校舎を歩きながら、高ぶっていた気持ちがだんだんと落ち着いてくる。つい今し方の出来事なのに、なぜあんなことを言い出したのだろう、と思う。けれど、それが悪かったか良かったのかなんて、唯自身にも分からない。 いずれ伝えるのなら、それはまっさきに本人に伝えるはずだった告白。同時に、自分はこんなにもあの人のことが好きなんだという確認。勢いに任せてしゃべり続けた瞬間、どこかで気持ちいいと思っていた自分はいなかっただろうか。 本人に伝わらない告白。そういえば、友達から何度か恋の悩みを打ち明けられたことがある。そのときの友達は、切なそうだったけれど、でも、どこかで幸せそうだった。 好きな人がいるということ。誰かを好きだという気持ち。それを自分だけの中に閉じこめず、誰かに知ってもらう事は、もしかしたら心地よい事なのだろうか。 歩きながら、いま自分がどんな表情をしているのかが気になってくる。だから鏡を見ようと、唯はちょうど目の前にあった生徒用トイレに入ろうした。 その瞬間、トイレから足早に出てきた人影と、唯の体がぶつかる。 「っ…!」 はじかれるようによろけた。予期していなかった出来事に尻餅をつくような格好で転んでしまった唯は、ぶつかってきた相手を確認しようと視線をあげる。 「あ…」 「さっきの…」 呟き、自分を見下ろしていたのは憧れの人だった。 辺りをうかがい、廊下に他の生徒がいないのを確認して小さく溜め息をついた結花は、唯に手を差し伸べる。 「ごめんなさいね、またぶつかって。出来れば保健室に戻りたくないから、怪我はないほうが嬉しいのだけど……大丈夫?」 「え、ぁ、はい」 結花の呟く言葉の意味が理解できないまま、唯はそれだけ言うのが精一杯だった。 怖々と結花の手に触れ、そして握る。思っていたよりも華奢な手に引き上げられて立ち上がる。顔と顔の距離が縮まり、唯は結花の目が潤んでいることに気づいた。 そんな顔、唯は知らない。だから刹那、緊張はどこかへと消えた。 どうして彼女が泣きそうなのか、なんてそんな理由は分からないし知らない。けれど、これ以上自分の知らない場所で結花が一喜一憂することに耐えられそうになかった。 さっきの食堂での里奈と会話していた時の気持ち。あれが独占欲に似ていたことに気づき、そして今、目の前の彼女をとても愛おしい、と感じている。その気持ちに再び封をしてしまったら、またあんな切ない日々を過ごすのかと思えば、あそこに戻りたくない。 壊れないように守り続ける気持ちより、伝えて壊れたほうがきっといい。 体の強ばりが消えたあと、残ったのは正直な気持ち。 「…あの先輩、ちょっとお時間いただけませんか?」 「時間…? 別に、いいけど……でも、どうして」 問い掛けると、結花は少し戸惑いながらも頷いた。二度もぶつかったのだから、なにかしらの文句でも言われるのだろうか、なんて考えている結花は、目の前にいる唯がずっと自分の事を見つめてきたことを知らない。 「お時間はとらせません。ただ、私の告白を聞いてもらいたいだけです」 だから、一瞬、訳が分からなくて。 「好きです。ずっと、好きでした」 そう呟き、すがるように抱きついてきた唯の言葉が、まるで嘘のようだった。 |