■ レインタクト 第9幕<1>
水瀬 拓未様


 保健室という空間が閉塞していくような錯覚。唯とぶつかる数分前、彼女は昼食をとりにきただけの場所で、思わぬ言葉を耳にした。
 里奈が、彼女が。本当は、目の前の保険医に頼まれて自分に近づいてきたと。
「だ…って、そんな、嘘」
「嘘じゃないわよ。おかしいと思わなかったの? 校内じゃ有名人であるあなたの噂を知らなかったような彼女が、なぜその日のうちに過去のことを知っていたと思う?」
 弱い否定と、それを許さない言葉。
「それは―――」
「それは、誰かが彼女に伝えたからに他ならない。そして、その誰かが私なの。あなたの過去は、私、昔のことがあって詳しかったから」
 二年前のことを指しているのは、すぐに分かった。当時丹念に調べたのだろう、恵美理は自分についていろいろなことを知っていた。二年前、保健室で黙り込んでいた自分を前にして、恵美理が自分のことを話してくれたのを思い出す。
「もう少しでうまくいくと思ってた。なのに、こんな噂が流れてしまったら……あなたと上坂さんが接触するだけで、周囲はあれこれ騒ぎ立てるでしょうね。それだと、私のお願いを聞いてくれた上坂さんの迷惑になる」
 恵美理がなにを言っているのか、結花にはよく分からない。ただ、その言葉を理解した瞬間、なにかが壊れる。それだけは分かる。
 我慢することには慣れていると思っていた。
 なのに今だけは、こんなにも脆くて。
「だからごめんなさい、それと安心して。もう上坂さんにあなたの事は頼まないから。並木さんも迷惑したでしょう? あの子、真面目だからきっとあなたのことを親身になって心配していたと思う。…でもあなたは昔から、独りの方が――」
 恵美理の言葉が終わるより早く、結花は立ち上がっていた。弾かれたように立ち上がった勢いで、椅子ががたん、と大きな音をたてて倒れる。
 軋んだ胸からこみ上げてきたものを支えきれず、逃げ出すように保健室を後にした。気持ち悪い、というよりも何かを強く押し込まれているようで息苦しい。それは吐き気に似ていたから、このままではいけないと結花は一番近いトイレに駆け込んだ。
 熱い感覚が、喉をせり上がりそのまま遠慮なく外に出る。さっき食べたばかりのサンドイッチの味が、いやになるぐらいはっきりと分かった。嘔吐が落ち着くまで数分、ただ繰り返されるそれに次第に麻痺していく感覚。それでも、胸だけは痛い。
 痛さのせいか、それとも、別の理由のせいか。気づけば、瞳が潤んでいた。鏡を見ていたらだんだんと落ち着きを取り戻し始めた頭が、これからどうすればいいのか考える。
 里奈がいる可能性のある自分のクラスには戻れない、と思った。彼女と顔を合わせたら、自分はどうすればいいのか、自分がどうなってしまうのかが分からなくて怖い。
 鞄は取りに戻りたかった。けれど、昼休みがはじまってすぐ教室を出た結花は、里奈がどこで昼食をとっているのかさえ分からない。教室で食事をしている可能性も考えると、鞄は諦めるしかなさそうだった。
 家に帰ろうか。けれど昼過ぎの時間、制服姿で行動すると目立つに違いない。もしまた妙な噂が流れたら、里奈に迷惑をかけてしまわないだろうか。
 最近静かに過ごしていたのに、昨日今日と立て続けに妙な噂が流れたら、それは里奈のせいになったりはしないだろうか。
「…」
 鏡に映る結花の唇が、わずかに歪む。恵美理からあんな事を聞かされても、それでも里奈のことを思う自分がおかしくて、自嘲するように苦く笑った。
 彼女は、里奈は、自分が思っているような人じゃなかったのに。
「…時間、つぶそう」
 午後の授業だけなら、きっとどこかでさぼれるだろう。多少騒ぎ立てられるかもしれないが、学園の外で目撃されてあれこれと言われるよりはまだいい気がする。
 乱れている髪を指ですいて整えて、目元を親指でぐっとぬぐった。目が赤いような気がするけれど、まじまじと見つめられなければ気づかれるようなことはない。
 そうしてトイレを出ようとした時、結花は唯とぶつかった。
「さっきの…」
 妙な子、と口走りそうになった結花は、その言葉を慌てて呑み込んだ。妙な子は失礼だ、と思っていたのに本人を前にして口にするわけにはいかない。沈んでいた気持ちが、たったそれだけのことでわずかに浮き上がる。
 でも、その少女は本当に妙な子だった。彼女は、自分の事を好きだと言うのだから。
 不意打ちっていうのは、たぶんこんな事を言うんだろう。
「好きでした…って」
 名も知らぬ下級生からの告白。それはどこか現実味がなくて、きっと悪戯なんだろう、なんて結花は思った。上級生をからかうのが流行っている、だとか。
 それとも友達の間で決められた罰ゲームかなにかで、自分に告白しなければいけない、なんてことになったんだろうか。
「あ…」
 そう思いついた瞬間、そうかもしれない、と思った。自分はあの並木結花なんだから、好んで近づく相手なんているはずがない。だとすれば、さっき階段でぶつかったときの妙な反応も納得できる気がした。
「…冗談でしょう?」
 だから、そんな言葉が口をついて出た。だというのに、目の前の少女は違うという意志を言葉ではなくその腕に乗せ、自分をぎゅっと抱きしめてくる。
 冗談ではない、という証明。
 細く、けれど適度に筋肉のついている腕。それは見た目よりも力強く、制服の上から自分を拘束してきた。背が低いせいか、彼女の頬が自分の胸元あたりにうずもれて、その髪が口元にあたって少しくすぐったい。
 これほど強く抱きしめられた事なんてなくて、その感覚に結花は戸惑った。少し息苦さを感じるほど、自分の背中で交差した少女の腕。
 だから、違う言葉を選ぶ。
「…本気、なの?」
 合い言葉のように、拘束が解かれた。うずもれて今まで見えなかった少女の顔が現れると、彼女はわずかに頷く。
「もう、こんなの駄目だから――」
 それは、告白。
 嗚咽するような涙声は、さっきの腕の力から想像できないほど幼い。好きな人を思いきり抱きしめている間、気づけば唯は泣いていた。
 こんなに簡単な事だったなんて、知らなくて。
「ずっと、好きだったんです。ずっと見てました。でも、駄目なんです。先輩が、私の知らないところで先輩じゃなくなっちゃうのが」
 気持ちを言葉という形に出来ない。そのもどかしさが、なによりつらい。
 告白を夢見ながら、しかし片想いを選んだ自分。こんなふうになるのなら、自分の気持ちを言葉にする練習をしておけば良かった。
 好きな気持ちを胸の奥ばかりで暖めてきた。誰かに話すことも、手紙や日記に書くこともなく、ただ自分の心だけで理解し、育んでいた想い。
 伝える手段は言葉と行動。でも、どちらも拙くて、気持ちが全てのりきらない。
 不器用な告白だった。けれど、だからこそ唯の告白は、彼女がどれほど想っているのかという強さを、その腕の力とともに確かに結花へ届ける。
 しかし本気なら本気であるほど、結花はそれを受け止めることが出来ない。
「…ずっと見てたらわかるでしょう? 私は独りがいいの。それが、似合いなのよ」
 恵美理の口から聞かされそうになり、思わず逃げ出した言葉。聞きたくなかったはずのその言葉を、こうして自ら利用している自分が滑稽だった。
 自分は、ちょっとクラスメイトと口論したぐらいで、それが噂になってしまうような生徒で。だから今まではそれを利用することで、ずっと独りでいられた。
 誰とも関わらないことで手に入れた、それは一人きりの城。たとえどんなにみすぼらしくても、自分にとってはそれが唯一の場所だったはずだ。
「だから、好きなら。私を好きなら独りにしておいて。お願い」
 呟いて、脳裏を横切ったのは放課後の夕陽。似たような言葉を、昨日は里奈に向かって言っていたことを思い出す。
 城の扉は固く閉ざされたまま、その鍵はどこにあるのか自分でも分からない。
「…それに、私と一緒にいたっていいことなんてないわよ」
 もしも目の前の少女と一緒に過ごすようになれば、きっと周囲は興味をもち、面白がって噂するだろう。事実はもちろん、根も葉もないことも含まれて広がっていく噂。
 そうすればきっと、今の彼女を取り巻く状況も変化する。仲の良かった友達の態度が変わるかもしれないし、自分と同じようにクラスで孤立してしまうかもしれない。
 並木結花という存在と付き合うのはそういうことだと、結花はついさっき保健室で恵美理から聞かされたばかりだ。
 誰かが自分を好きになってくれるだなんて、想像すらしていなかった。だからこそ、里奈への想いで知らず浮き足立っていた気持ち。
 でもそれは、恵美理の言葉で霧散した。
 里奈は頼まれたからこそ、あなたの事を心配していたのだと恵美理は言った。その頼んだ人物が自分であるとも。
 本当に彼女は自分の意志でなく、大人の代行者として自分を気遣ってくれたのか。だとすればあの言葉も、笑顔も、そして胸の傷すら、私の為ではなく。
 喜ばせたい相手は別にいて、私はその手段に過ぎなかった。
 知らず、ずっと緊張の中に身を置いてきた。どんな噂にも、どんな相手にも気を許さなかった。それが自分を演じることだとしても、苦しいと感じたことはないはずだ。
 でも、里奈と会ったことで亀裂が生まれた。忘れていた自分が、閉じこめてきた自分が大きく息を吸う。嫌なことを嫌だと言えるなら、本当に素直になると決めたのなら、好きなことを好きだと言ってもかまわないはずだと、それは囁いた。
 一晩考えた。誰かのことをこんなにずっと考えたのは初めてに近い。ずっとずっと考えて、それでも変わらなかった。彼女のことを、好きだと思った。
 思った瞬間、どぎまぎして困った。誰かを好きになるなんて思ってもなかったから、この気持ちが本当であるかも分からなかった。ただ、放課後の教室、胸の傷を自ら晒した里奈は自分の届かないところにいて、その微笑みに心が焦がれた。
 もし手を伸ばせば、彼女のように笑えるようになるのか。彼女の言葉に頷いて、独りは嫌だと呟けば、魔法のように世界は変わったんだろうか。
 けれど、憧れた魔法は手品。数分前、保健室で結花はその仕掛けを知った。
「…分かって。私といてはいけないの。きっと、あなたを傷つける」
 目の前で自分を見つめる彼女が誰だろうと、それは関係ない。
 きっと、恵美理の言う通りだ。自分は、誰かと一緒に時を過ごしてはいけない。そんなこと、夢見てはいけない。
 好きという気持ちがどれほど強いか、結花にはまだ分からない。でも、あることないこと言われても平気でいられるほど、それは強いものなのか。
 周囲から指をさされたとしても、笑っていられるほど、その気持ちは――
「…平気です、私。なに言われたって、平気です」
 自分の心の中でだけ、呟いたはずの問い掛け。それに、目の前の少女が応えた。
「怖いのは、ただ怖いのはひとつだけ。先輩が、いなくなることだけだから」
 唯の心の中にある不安。
 今まで片想いでいられることができたのは、結花がその周囲に誰も寄せ付けなかったからだ。独り占めはかなわない、けれど彼女は誰のところにも行かない。だから均衡が保たれていた自分の心。
「好きです。だから」
 制服越しに伝わる肌の熱と、抱きついたときに初めて知った結花の匂い。背中に回した指に絡む細い髪と、耳にかかる呼吸の波。
 溶けそうなほどに熱くなった胸の鼓動で、自分が興奮していることを知る。
「だから―――」
 唯が言いかけた、その時。廊下を曲がってトイレへとやってきた二人組の女生徒が、目的の場所の前で抱き合う格好の二人を見つけた。
 二人組は、その片方が並木結花である、というのがすぐに分かった。ちょうど結花の噂話をしていた彼女たちにとって、それは出来すぎた偶然だったかもしれない。
 人の気配に敏感な結花が、二人に気づいて視線を向けた。結花と目があって戸惑っている様子の女生徒二人を、遅れて唯が視界におさめる。
「…噂が私を傷つける。だから、一緒にいちゃいけないって先輩言いましたよね」
 抱きしめた腕をそのままに、唯がつま先立つ。
 自分が噂なんかを恐れないと、それを証明する手段。
「私、負けませんから。そんなものなんかに」
 ずっと遠かった結花。その唇に、唯は自分の唇を合わせた。