嘘 |
【 第6話 】
一日の授業を終えて喧騒を取り戻した放課後の教室で、ブレザーのポケットに入れておいた携帯が短く振動した。 <今日来る?> 短い一文が液晶に浮かび上がる。高原からだ。 定型文のように短い、そしてこの2ヶ月ですっかり見慣れてしまったメール。教室の誰にもばれないよう、時間をずらして高原の家に行くために始めたメールだ。 私がセックスしたい時は短く“行く”とだけ返す。そうすると高原から家に帰り着いている時間を知らせるメールが返ってくる。したくないときも同じように短く返す。 “やめとく” 昨日も今日も、そして明日も、返事は同じ。 高原の席のほうをみないまま、携帯を制服のポケットに滑り込ませる。そして手早く帰り支度を済ませて学校を出た。 あれから、高原の家には全く行っていない。 正確に言うと、社会科準備室で先生に見つかってからだから、もう10日も高原からのメールに同じ返事を返し続けていることになる。 あれほど寝ても醒めてもセックスにとり憑かれていたのが嘘のように、最後に先生に抱かれてから私の欲望の火はぱったりと消えてしまった。 今私に残っているのは、先生に打たれ続けたお尻の鈍い痛みだけだ。 これほど痛みが長引くところをみると、もしかしたら大きな痣にでもなっていたのかもしれない。脂肪が厚い部分なのに痣になるほど強く打たれていたのかと思うと、その痛みにさえ溺れてしまった自分の意地汚さに吐き気がしそうだった。 逃げるように帰った一人の部屋で、ベッドに寝転びながら目をとじると、先生と高原が交互に現れる。 たった1週間たらずの間に続いて起きた出来事が、自分自身についての認識とセックスの意味をまるごと塗り替えてしまった。 高原の知らないところで、先生とセックスした。でもそのことに対する後ろめたさはなにも無くて、それでも高原の部屋で2人きりになって、いままでと同じようにセックスできるかどうか、まったく自信がなかった。あえぐ私の上に、もしかしたら高原は今までとは違う何かを見つけてしまうかもしれない。あるいは私を見下ろす高原に、今まで気づかなかった何かを見出してしまうかもしれない。 そう、私が怖いのはたぶん変わってしまった自分自身で、高原の家にいけばいやでもセックスを通してそれを思い知らされてしまうような気がした。 高原に対して、今まで全てをうちあけてきたわけじゃない。誰にもいえない時間を共有しているにせよ、私たちは決して特別なオンリーワンではなかったし、言えないことも言わないこともたくさんあった。 それでも、セックスに関しては高原に隠し事は通用しない。そんな気がした。もしかしたら、聡い彼のことだから、私と先生の間になにかあったことさえ、とうに気づいているのかもしれない。 ただ先生に見つかったというだけで、セックスを完全に絶てるほど私の欲望は生半可なものではなかった。そのことを、高原は誰よりもよく知っている。実際先生に呼ばれるまでの3日間こそ気が気ではなかったものの、もしあのまま何もない状態が続いていれば、私はまた日をおかず高原の部屋に通っていただろう。 呼ばれるままに視聴覚室に行ったあの日のたった一つの収穫―――先生の「誰も何も言わない」という言葉を、私はまだ伝えていない。それなのに、高原は誘いを断り続けても決して態度を変えず、何も聞かず、不審な様子ひとつ見せない。 あるいは、私からなにか言い出すのを待っているのだろうか? 今の私はやぶへびを覚悟でそれを確かめることも、変わらぬフリを通すことさえもできずにいる。そのどちらかを選ぶ勇気すら、持てないでいる。 高原の家に全く行かなくなってからというもの、一日がとても長くなったことに今更のように驚いてしまった。 放課後の時間をものすごくもてあますようになって、でもそれが高原の家に通う前のあたりまえの毎日だったということがとても信じられない。 数ヶ月前の自分がどんな気持ちで日々をすごしていたのか、私はもう思い出すことができない。 授業を終え、友達と肩を並べて帰る。その足でショッピングモールに立ち寄り、一緒に雑貨や服を見る。あるいは一人で本屋に寄り、雑誌を立ち読みしたり気になる本を時間をかけてめくってみたり、あるいはまっすぐ帰って、夕飯の支度を始めた母を手伝いながら他愛もない会話をかわす。そうして繰り返す毎日は、高原の家に通う前と多分何も変わってはいない。 つまらないことでしょっちゅう笑っているのに、この何かが大きく欠けてしまっているような違和感はなんだろう。ひどく空疎な気持ちが、ごくあたりまえの日常を居心地悪いものに変えてしまっていた。 不思議なことに、全くしなくなってはじめて、私はセックスではなく高原のことを考えるようになっていた。 繰り返し思い出すのは、私を貫く直前の先生のあの瞳の色と、「高原はお前に必要な存在なのか」という問い。 あの時、私は問いの裏側にあった“俺ではお前にとって必要な存在になれないのか”と乞う先生の気持ちに、どうしても応えることができなかった。 私の体は先生が与える酷い行為を受け入れ、あまりにもたやすく快楽に溺れた。私の内で駆け巡る快楽の激しさは確実に先生にも伝わっていた。だからこそ、たぶん尋ねずにはいられなかったのだろう。 でも、実際は溺れる体とは裏腹に、心は先生を受け止めるどころか突き放し、容赦なく切り刻もうとした。傷つく先生の姿にすら、私は感じた。そして感じることで、更に先生を傷つけようとした。先生が傷つけば傷つくほど、私の傷つけられた部分が熱く沸騰していった。まるで魔物が裡に棲みついたかのようだった。 いみじくも先生が言った言葉―――セックスのためならなんでもできるのは、男の先生でも高原でもない、私のほうなのだ。 あれが、きっと高原とのセックスでは決して知ることができなかった、自分の本当の姿なのだとしたら。 己でさえ醜いと思う姿が人の目にまともにうつるはずもない。先生が私をなじり続けたのも当然のことだ。 今までずっとただセックスができればいい、快楽だけあればいいとだけ思っていた。 今でもその考えに変わりはない。 けれどもあの日、私自身が出した答えはそれとは矛盾している。 どちらのセックスでも感じ、どちらのセックスでもいき、めくるめく忘我を貪っていながら、先生と高原の何がちがうというのか。 なぜ高原なのか、先生ではダメだったのか、私にとって高原はどんな存在なのか、繰り返し重ねた時間を思い返しながらずっとその答えを探し続けている。 ひたすらにセックスし続けていた2ヶ月の間に、私を変えていったものはなんなのだろう。 “高原の家に行かないとなんだかすごく手持ち無沙汰なかんじ(笑)” <じゃあメールなんてしてないで今からでも来るか? 俺も家にいてもなんもすることないぞw> “だって、全然エッチする気分じゃないもん。それに高原んちで話だけなんてありえないでしょー?” <まーなw でも、名取話してて面白いし、そっちがしたくないならエッチなしでも別にいーかも、って思ってさw> “私のどこが面白い?” <えー、一身上の安全のためそれは秘密ということでw> “高原クン? それで許されると思ってるのかな〜?(^ ^)” <いきなりくん付けかよ! ってゆーかその笑顔がチョーゼツ怖いんですけど!w> “いまさら私に隠し事なんて酷い〜(T-T)(嘘泣)” <嘘かい!w 言ったらもっと怖い気がするんだがw> “つべこべ抜かさず言いなさいっ( ̄^ ̄)” <はいっ、終わった後とかくったりしてすげー可愛いのに、話始めると急に『ねーちゃん』っぽくなっちゃうとことか、すげー天然なのに自分で気づいてないところとか、すげー感じやすいとことか、変なとこでムキになるところとか、からかい甲斐・いぢめ甲斐があって、大変オモシロイですw> “ピシッ! (*ー"ー)ノ☆)゜ロ゜)ノ グハッ!!!” <いててw 正直に答えたのにひでぇなあw> “なんてこと言ってるのよっ(- -#) 高原のスケベっ” <え〜。だってホントのことだしw 名取は面白くて、エロくて、かわいいし、俺かなり気に入ってるんだぜ? 学校でも、時々アノ時の顔が思い浮かんだりして、気をつけてないとマジ勃ちそうでヤバいw> “もー、それ以上エロいこと言うの禁止っ! なんでそんなにエロいかな〜(ーー;)” <あ、でも俺もうずっとオナニーしてないw そのうちやり方忘れるかもw> “もしもーし? 私が言ってることちゃんと通じてる?? それに、あれって忘れるようなもんじゃないと思うんだけど” <いや、なんつーか、全然する気にならないんだよなあ。溜まってるとは思うんだけど。今なら俺、聖人君子になれる自信あるw> “一瞬だけなられても聖人君子も困ると思う(笑)” <名取は? ちゃんとしてる? オナニー> “全然してないよ” <え? してない? マジで? 怒らないから正直に言ってみ?w> “してないってば! 失礼ねっ(笑)” <なんなら次までの宿題にしてやろーかw> “謹んで辞退申し上げます(笑) そういえば数学の宿題もうやった? 私昨日やったけどめちゃくちゃ大変だったよ。須藤あれやっぱり鬼だよ、鬼っ、絶対っ!” <げ。忘れてた! ヤバい!!> “うわ。数学得意なヒトは余裕だなぁ。こっちは必死になってやったのにー。なんかムカつくぅ(笑)” <いや、冗談抜きでマジでまずい。俺、ノートも教科書も学校に置きっぱ> “明日ノート提出って言ってたじゃん” <だよな。しょーがない。これからガッコに取りにいくわ。まだ門あいてっかな> “うん。まだ大丈夫だと思うな” <暇してるんだったら名取もくるか? きたらコーヒーくらいはおごるぞw> “それって学食の自販機?(笑)” <その手があったかw いや、駅前にスタバあるだろ。たまには外で会うのも悪くないかなーと思って> “うーん、どうしようかな〜” <ここで寂しくぼーっとしてる暇人がかわいそうだと思わん?w> “ガッコから宿題取ってきたら暇どころじゃないんじゃ?(笑)” <うw 今の刺さった! 刺さったよママン!w> “誰がママンかっ!(笑) そーだなー、カフェラテおごってくれるんなら行こうかな(笑) また制服に着替えるの面倒だから校門の外にいていい?” <はいはい。ラテおごりますともw トッピングも好きなものじゃんじゃん乗せてオッケーw じゃ、ガッコじゃなくてスタバの前で待っててよ。30分くらいで行けると思う> “うん。わかった。じゃ、スタバの前でね” 高原は待ち合わせ場所にボタンダウンシャツにこげ茶のニットブルゾンといういでたちであらわれた。もちろんネクタイなんて締めていない。ズボンだけはかろうじて制服のものだったけれど、服装規定の厳しいウチの学校で先生に見つかったら最後、たとえ放課後だって大目玉は確実な格好だった。 「えっ、それで学校に行ったの?」 会うなり思わず叫んでしまった私に私に高原は笑った。 「教科書取りにいくだけなのに、わざわざ制服なんて着てらんないって。ま、先生らに見つからないようダッシュで往復はしたけどな」 学校指定の鞄ではなく普通のデイバッグを肩からかけた姿は、背の高さと落ち着いた雰囲気もあって、高校生というより近隣の大学生に見えないこともない。 もしかして、私が私服だから気を使ってくれたのかな。店に入る時になって、やっとそのことに気づいた。 「あ、思ったよりウチのガッコのやついるなあ」 夕方の店内はけっこう混んでいて、レジと受け取りカウンターの前にちょっとした列ができていた。順番待ちをしながら首を伸ばして店の奥を覗くと、オレンジを帯びた間接照明の合間に見慣れたグレーの制服の背中がいくつも散らばっているのが見えた。 「ほんとだ」 「外にでるか?」 いくら私服姿でも同学年なら顔をみればすぐにわかってしまう。面倒をさけたほうがいい。 「そうだね」 約束どおりおごってもらった紙コップを手に夕方の人の多い商店街に出た。 思い出したように吹き抜けていく秋風はこの時期にしては刺すように冷たい。 自動ドアから出るなり寒風の洗礼をうけた私たちはそろって声をあげて肩を震わせ、顔を見合わせて思わず笑ってしまった。 高原は笑うと優しい目元がさらに甘くなる。一番最初この笑顔に惹かれて、なにかと手伝いを頼んだり、気を許すようになったのだと思う。 「あー、なんかちょっと予想外だったわ。わざわざ呼び出しといてごめんな」 珍しく高原は苦笑まじりに謝った。 「なんで? ちゃんとこれおごってくれたじゃん。それにしてもみんなお金持ちなんだねー。私おごりじゃなかったら絶対ガッコ帰りにあんなとこ行かないよ」 「あれ、名取はバイトとか……」 「してると思う?」 「いや、あんだけウチにきてたらしてるヒマないよなーと、今思った」 「そーゆーこと」 ぶつかりそうなほど近いその体が軽く揺れて、低い笑い声が振ってくる。 「高原もバイトとかやってないよね?」 「俺は夏休みとか冬休みとか長い休みにまとめて稼いでんの」 「あー、そっか。そういう手もあるんだ」 「期間限定のバイトって結構気楽でいいよ。学生だから時給は安いけどな」 小さい私鉄沿線の駅前。けして広いとはいえない道を挟んで続く商店街は、時間柄夕方の買い物客でごったがえしていた。薬局の前で籠にはいったセール品を手に取る若いママや、スーパー前の駐輪場で強引に自転車を押し込むおばさんたち。塾へ向かうのか手提げを振り回しながら歩く小学生達の背中。傍若無人な人波をそれぞれ適当にかわしながら、あてもなく並んで歩く。 傾きかけた陽の光が、毎日繰り返されるごく当り前の光景を感傷的に染め上げている。 ふと並んで歩く高い肩先の、そのまた上にある高原の横顔を見上げた。 薄く赤い色を帯びた静かなその顔は、私の視線に答えて無言でどうした?と尋ねる。 会ったら何もかも見透かされてしまいそうで不安だったのに、見下ろす高原の瞳はとても穏やかで、なにをそんなに恐れていたのか、自分でもよくわからなくなる。 会うことへの不安と同じくらい、ホントは会いたいと思ってた。 店の前で久しぶりに真正面から高原を見たとき、今更のようにそう気づいてしまった。 その「会いたい」と願った気持ちが、自分で信じられない。 ただ毎日のようにセックスしてきただけだ。私たちの間に、それ以外の接点なんてなにもない。寝物語でしたたくさんの話も、クラスメイトにはけっして見せない部分をむき出しにして見せ合ったことだって、特別に感じたことなんてない。 きっと高原はどの女の子も私と同じように抱くのだろうし、同じように優しく接するのだろう。そのことを寂しいと思ったことなどなかった。 私の物思いをよそに、降ってくる声は馴染みきったいつものトーンで、テレビをネタにおかしなことを言う。何もなかったようについつられて笑ってしまって、そのあたりまえさになんだか胸をつかれた。 今にもぶつかりそうなほど近くにある高原の腕が、響く声が、見つめてくる瞳がひどく遠く、懐かしく、そして慕わしい。 なんで、今、こんな風に感じてしまうのか。 「こんなところで、そんな顔しないの」 不意にこちらに振り向いた高原がそんなことを言って、むに、と私の頬をつまんだ。 「え? 私、なんか変な顔してた?」 「うん。そりゃもーヘンな顔してた」 「えぇ? なにそれー」 「手、繋ごうか」 私が答える前に、高原はあいていた片手をしっかり掴まえてしまった。逃げることなど許さないようにすばやく指と指がからまり、強く握られる。少し冷えた指先に乾いた掌はとても温かかった。 「………ねえ、高原も、ヘンじゃない?」 その手と、高原の横顔を交互に見比べて、やっと、私は声を押し出した。 「かもな」 こうすることがまるで当り前みたいな顔して、高原は笑った。 それがやけに甘く優しく感じられて、クラスメイトがいてもおかしくない学校近くの街中だというのに、手を振りほどくことができなくなってしまった。 胸がいっぱいなのに、頭がからっぽになってしまって何も言葉が見つからない。 子どもみたいに手を引かれて歩けば、嫌でもはじめて二人でこんなふうに歩いた夕暮れの校舎に心を引き戻されてしまう。 あの日と同じように、しっかりと繋いだ手の暖かさがみるまに私の心をからめとって、一人で立とうとする気持ちを激しく揺さぶる。甘えてはいけないのに、この暖かさが全てを許してくれそうな気がしてしまう。 そうしてもらえる価値など自分にはないと、誰よりもよくわかっているはずなのに。 高原の足は、早くも遅くもない足取りで、人の少ない商店街のはずれへ向かっていく。無遠慮に走る買い物客の自転車が、甲高いベルをならして私たちのすぐ脇をすり抜けていく。私達はいったいどこへ向かっているのだろう? ここから先で、私たちがいけるような場所なんて数えるほどしかない。 頭の上から再び、少しだけ低くなった声が降ってきた。 「なあ、どこ行こっか?」 2人とも自転車はスターバックスの前に停めたままになっている。この商店街を出るなら、とりあえず引き返して取りにもどらなければならない。 「どこでもいいよ。名取行きたいとこ、ない?」 改めて聞かれて、私は立ち止まった。繋いだ手に引き止められるように、高原の足も止まる。無言のままどうする?と仕草で尋ねられる。 ざっと商店街を吹きぬける風が、二人の髪を乱暴に乱してどこかへとかき消えていく。 尋ねられてはじめて気づく。行きたい場所なんてどこも思いつかない。でも。 私は薄く息を吐き出して、一言ひとことゆっくりと答えた。 「どこか、2人きりになれる場所」 その答えに高原はかるく肩を揺らして笑った。 「俺んち以外で?」 「うん」 「エッチしないのに?」 「うん」 ふっと、見上げた高原の顔から笑顔が消えた。 「エッチはしないけど……でも2人きりになりたい」 「前から思ってたけどさ」 「うん?」 「名取ってわがまま言うのうまいよな」 再び手を引かれて歩き出した横顔は、苦笑しているのにどこか嬉しそうにも見えて。 どう答えればいいのかわからないまま、繋いだ高原の手を強く握り返した。 |