【 第7話 】

そんなつもりはなかったのに、目があったらそうせずにはいられなかった。
どちらからともなく手を伸ばして、お互いを引き寄せて、強く抱きしめて。こんなのはおかしい、と頭のどこかが騒ぎたてていたけれど、一度高原の匂いに包まれてしまったら、そこから抜け出すなんてとてもできなかった。
ルームライトをなかば絞ったクリーム色の光の中で、見上げる瞳はわずかに影を帯びている。冷えたシャツに額をあずければ、湿った熱がこめかみに押し当てられた。
「名取」
呼ばれて顔をあげたら、次の言葉のかわりに頬をすり寄せられた。まるで猫がじゃれてくるみたいだ。頬を甘噛みしたり、体をこすりつけたり、でもセクシャルな雰囲気じゃぜんぜんなくて、体をぶつけ合うようにしてお互いを確かめあってる。
「なんだかすごーく、ひさしぶりな気がする…」
服越しに感じる体温や、耳元で震える声、大きな掌の感触やかすかな匂いもなにもかもが懐かしくて、胸の奥の深い部分が沸き立つ。たった10日なのに、と笑ってみても、心はもっと遠く隔たっていた。気づいていただろうか。私が全力でセックスから―――高原から離れようとしていたことを。でも、そんなことは無駄な努力でしかなかったのだと、体から言い聞かされているような気がした。
「うん、そうだな。毎日学校で顔あわしてるけどさ、やっぱり……違うよなあ」
深く吐き出された息とともに、再び強く抱きしめられる。
「あー、ダメだ。なんか俺、自滅しそう。すげーヤバいんですけど」
久しぶりに聞くかすれた声が肌で感じるほど近くて、その近さがなぜか胸に痛いほどで。
でも私は、シャツの胸元に顔をおしつけて、言った。
「……しないよ? そういう約束だから、ここに入ったんだもん」
「うううううう。鬼……」
「今更」
あまりに情けない声だったので思わず笑ってしまった。高原も苦笑して、じゃあキスだけ、と身をかがめて頬に触れた。



どうして2人きりになりたかったのか、ここ―――駅裏のラブホテルにはいる前に理由を聞かれたとしても、私はきっと答えられなかっただろう。
駅近くという立地条件と通学路からよくみえるその姿で校内で噂話の種になるにはことかかない、興味はあっても自分がいつかそこに入るだなんて夢にも考えたことはなかった場所。
柄にもないほど情熱的な抱擁を交わしたあとで、急に我に返った気恥ずかしさと知らず湧きあがった気持ちから半ば逃げるように、私は生まれてはじめて入ったラブホの探検をはじめた。
部屋中の扉という扉は全部あけて――どうみても飾りにしか見えない木戸の向こうにちゃんとホントのサッシの窓もあったのが笑えた――背の低いロッカーみたいな自販機の中身に驚いて、洗面台のアメニティもチェックして、丸見えなお風呂のガラス越しに高原に手をふってみたりして。
いちいち声をあげる私に律儀に返事する高原は、半ば呆れているようにも面白がっているようにも見えた。その様子がまた場慣れ具合を物語っているようで、なんとなく居心地が悪くて、だから出来るだけ余計な事は考えないように、一人ではしゃぎ続けていたのだった。
最期には仕上げとばかりに一人で寝るにはあまりにも広すぎるベッドに体を投げ出してみた。うつぶせになって、手足を思い切り伸ばしても、まだ余るほど広い。
高原はベッドの横に並べて置いてあるソファで、足どころか全身を投げ出したゆるい格好でリモコンを手にいつのまに点けたのかテレビを見ている。
家で見ているのと同じ、夕方のニュースが、空調の音が篭る部屋に流れていく。
「ラブホってすごーくテレビおっきいんだね」
暖炉を模したと思われる装飾的な壁面の張り出しをまるごと占拠するその大きさに思わず感心してしまった。高原はちらりと目線をこちらにむけて、意味深に唇の両端をつりあげた。
「おう。見ながらできるようになってるからな」
「見ながら?」
「うん、エロビデオ」
「えっ」
いや、ここはそういう場所なんだから、と今更のように思い出してみても、その答えは私の予想をはるかに飛び越えていた。慌てる私が次の言葉を見つける前に、
「見る?」
肘掛にもたれるようにこちらへ体をひねって、真顔で言う。
「………そんなの見ないよっ、えっち!」
思わず叫ぶと、失礼なことに高原は景気よくふきだしていた。
「ばーか。ここで見たいっていわれても、俺の方がそんな我慢大会のような真似できませんて」
「もう!」
「あー、でも全然興味ない? AVとか」
「それは………ちょっとは、ない、ことも、ない、けど」
答えながら、意識のどこかで危険信号が点滅しはじめる。そう、いつもこんなふうに、なんでもないことのようにとんでもないことを聞いて、私のスイッチを順番に入れていくのだ。
私の顔に浮かんだであろう警戒心に高原も気づいたのだろう。
「じゃ、次うちにくるときはAV乱れうちこれでもかコースってことで」
「高原ってネーミングセンスないー」
お互いくすくす笑って、でも私たちがいるのはラブホテルで。
普通の人からしてみれば高原の部屋よりももっと生々しい場所なのに、ひと目を気にしないで2人きりになろうと思ったらこんな所しかない。
きちんとプレスされたリネンが私が動くたびにさらさらとかすかな音を立てている。
かすかに残る仕上げの糊のにおいは清潔さの証でもあるのに、おかしなことにその清潔さがひどく他人行儀なものに感じられた。どんなに2人きりでくつろいでいても、ここは、いつもの高原の部屋ではないのだと思い知らされる。
2人になって何をしたいとか、そんなことは何も考えていなくて、ただいつも高原の部屋でそうしているように、誰にも邪魔されない他愛のない時間を持ちたかった。でも。
とすん、と枕に頭を落として、テレビを見ている横顔にぼんやりと視線をあわせる。
ソファと私が寝ているベッドの距離はそれほど遠くは無い。ただ、手を伸ばせば届く距離でもない。ほんの数歩分の、ごく小さな声でも名を呼べば届いてしまうだろうこの距離が、今の私と高原を象徴しているような気がした。
こちらを向いて欲しいような、向いて欲しくないような矛盾した気持ちのまま、私はじっと高原を見ていた。
「名取」
テレビを見ている格好まま、高原は少し困った声で私の名前を呼んだ。
「……なあに?」
ひとつため息をついてからリモコンでテレビのスイッチを切り、ゆっくりと立ち上がってはじめてこちらを見る。
一歩。二歩。三歩目にはもうベッドの傍まで背の高い体が届いていた。
「…………あのさ、今日はしないって決めてるんだったら、そんな顔すんなって」
ベッドのスプリングが大きく傾く。うつぶせていた体をひねってベッドに腰を下ろした高原を見上げると、乾いた掌が降りて来て頬を撫でた。
「私、変な顔してる?」
その気持ちよさに目を閉じたまま尋ねると、瞼に感じていた淡い光が大きな影にさえぎられるのがわかった。
「うん、そりゃもう変な顔してますとも」
ここに入る前とまったく同じやり取り。
重ねられた唇に抗議の言葉が攫われる。そのまま仰向けに引き倒され、柔らかな舌に濡れた内側を深くなぞられた。
走った電流に体が自然とのけぞる。
「…………ん………っ」
あまりにも馴染んでしまった、深いところにある熱を呼び起こす甘いぬめり。
背中にすがりついてしまいたい、と動きかけた指先を、一番最後にそれを感じた―――傷つけあったあの快楽の記憶が引き止める。
ダメだ、そう思った瞬間、
「やっ……っ!」
上から押さえ込む高原の手から逃れるために体をよじっていた。
「………名取?」
しまった、と思ったのは、高原が体を起こしてからだった。
今まで一度だって、高原からのキスを拒んだことなんてなかった。
そんな必要なんて無かったからだ。
今日だって、もちろんそうだったのに。
「……ごめん…………私」
驚いているであろう高原の顔を正視することができずに、思わず両腕をあげて自分の閉じた目と顔を隠した。
自分がいまどんな顔をしてるのか、見られることも耐えられない。
「悪い。今のは反則だった」
ごく短い無言の間のあと、ふっと吐き出された息とともにいつもの穏やかな声が降って来た。
「今日はしない約束だったよな。ごめん」
そうして、私の頭のてっぺんをくしゃりと撫でた。
高原の手は、いつもとても優しい。
ギシッとまたベッドが軋んで大きく揺れ、スプリングの伝える傾きが更に大きくなった。
「名取」
大きな手が、少しためらいがちに頬に伸びてきた。
のろのろと腕を下ろして目をあけると、高原がすぐ横に寝転んでいて、困ったような、途方にくれたような目でじっと私を見ていた。
「なあ、絶対何もしないって約束するから、抱っこさして?」
「……うん。いいよ。」
よかった、という甘い声とともに腕の中に引き寄せられ、首の下に腕枕が入ってきた。
触れ合うと気まずさはあっというまに消えてしまう。高原の匂いがひどく懐かしくて、自然に喉もとに顔を寄せていた。
「なんか久しぶりすぎて調子狂う」
照れたような声がじかに響いてくる。私は頷く代わりに小さく笑った。
「ほっぺやおでこにキスをするのもダメ?」
頬や髪を撫でながら、耳元に低い声が吹き込まれる。
人にはとても言えないような事だって何度もしたのに、今更のようにセックスしたことのないカップルみたいなやり取りをしてるのが、なんだかおかしかった。
「高原のキスは気持ちよくなっちゃうから、今日は唇以外でもダメ」
正直に答えたら撫でる手が一瞬止まった。
そして、またしても笑われてしまった。
「ねえ、なんでそこで笑うかなぁ」
「いや、ごめん。うん、今日はキスもなしな」
口では謝りながらも、寄せた体はまだ笑いの波動で小刻みに揺れている。
やがて、大きな手が私の後頭部をしっかり抱え込んで、動かないように胸元に押さえつけてきた。
「なんかさぁ、すっげーひさびさに2人きりじゃん? だから……エロいことしたいとかそーゆーんじゃないんだけど…いや、正直ものすごーくしたいんだけど。それよりも………なんてゆーか、なんか、やたら触っていたくて変な感じ」
私だけじゃなく、高原だって今日は少しおかしい。いままでそんなこと、言った事ないのに。
「うん。私も」
広い背中に腕を回して、暖かな胸に頬をぴったりと押しつけたままそっと目を閉じる。
「今日待ち合わせで会ってから、ずっと高原に触りたかったよ。こんなふうに。えっちするのは嫌なのに、変だよね」
私より体温の高い高原の胸からは少し早い鼓動が聞こえてくる。
恋人でもなんでもないのに、私の体はすっかり高原に馴染んでしまっている。少し離れていただけで、こんなにも恋しがってしまっている。それは心ではなく体の欲求には違いないのだけれど、心と体が完全に分離しているのかというと、たぶんそれは必ずしもそうではないのだと思う。
気持ちイイからセックスする。何度でもしたくなる。ずっとそう思ってたし、実際に高原との関係ではその通りだった。でも、それだけではないことが、先生とのセックスでわかってしまった。
高原と、先生の違いは正直わからない。
でも、私を好きだという先生よりも、愛でも恋でもないはずの高原に、私はいつも多くのものを与えられてる。そんな気がする。快楽だけではなく、たやすく信頼と口にするのもためらわれるような、たとえばそれは、一般的には情といわれるようなものなのかもしれないけれど。
毎日のように会って、セックスして、心も体も近くにいて―――今は少し離れているけれど―――先生より高原のほうが近くにいるのは当然のことで、でもだからそう感じているのではないと思う。
会うのを拒み続けていた間も、ずっと高原は変わらずにそこにいてくれた。
たった10日のことだとしても、理由もなにも知らないままそうすることがどれだけ難しいことなのか、自分に置き換えてみたらすぐにわかる。
人と人との関係がギブアンドテイクだというのなら、私はずっと高原から貰いっぱなしで何も返せずにいる。唯一できるセックスでさえ、今は拒んでいる。
今、この瞬間でさえも、申し訳ないと思う反面、ただ与えられて満たされる自分がいる。会いたくないと思っていても、会えば会いたかったと感じてしまう。矛盾だらけだ。
こんな混乱している自分を、見られたくなかった。たぶんそういうことなのだと思う。
「さっきは急にキスして、驚かせてごめんな」
突然、改まった声がすべりこんできた。
内側に沈み込んでいた意識が、急に引き戻される。
「……ううん。こっちこそ、ごめん。びっくりしたでしょ」
「いや、全然」
「え?」
「妙に初々しい反応だったんで、実を言うとちょっとムラっと来た」
言われたことが理解できず、つい見下ろす顔をまじまじと見返してしまった。
「………えーと、なにそれ?」
「いや、ごめん。でも、ほんとになんつーか変なツボにジャストミートっていうか」
目があうと、いつになくわたわたと慌てて言い訳をはじめる。
「名取が、あっ、しまった、て顔したの見たときにさ。………その、怒らないでほしいんだけど、なんかものすごーくイジワルしたくなって。なのにすげーカワイイ事言ってるからさ」
やがて照れたようにふいと目線が反らされ、
「だから我慢できなくて当たっちゃってるけど、その辺はスルーってことでお願いシマス」
私のおなかにぐいっと、ズボンの下で固くなっているそれが押しつけられた。
言ってることとやってることが違うんじゃない?って思ったけど、今日は私がわがままを通しているのだから、黙っていることにした。
「…………男の子って、不思議」
広い肩に頭をあずけ、斜め下からきれいな顎の線をみあげる。
「女の子のほうが謎だよ。ヤローからみたら」
困ったように笑うその横顔がひどく大人びて見えた。
高原は女の子にはみな平等に優しい。だから、人気クラブの男子みたいに表立って騒がれたりはしないかわり、気安く声をかける女の子はかなり多いと思う。それは、優しくて話しやすい、というだけではなく、ふとした弾みに見せる、こんな魅力的な表情に気づいてる女の子がたくさん居ると言う事なのかもしれない。
年相応の男の子の顔から一瞬だけ男の人の顔を覗かせて、それが思いもしないほどセクシーに感じられて。
キスしたらダメと言ったのは自分なのに、不意に湧きあがった衝動に負けて、すぐそばにある顎にすばやく唇をおしつけていた。
「……キスすんのもダメなんじゃなかったっけ?」
高原はなぜかすごく驚いた顔をしていた。
「私からするのはいいの」
「なんだよ、だったら俺だってほっぺにちゅーくらいはいいだろ」
「だーめ。高原キス上手すぎるんだもん。ほっぺでも油断できませんー」
「それは名取が感じやすすぎるからだろ。でもまあ、だから楽しいんだけどさ」
女って理不尽だなー、とぶつぶつぼやきながら、でも指先は優しく髪を梳いている。
「なー、指にキスすんのもだめ?」
「絶対ダメ。高原エロ過ぎだよ」
「ちくしょー。でも指でエロいって言ってる名取もエロいよ」
ニヤニヤ笑って強く抱きしめてみたり、やみくもに顔をこすりつけてみたり。いつもと同じようで、でもなんだか全然違う。
「もーっ、わかってるくせにー」
「ダメっていわれるとよけいにしたくなるだろー」
「したらどんどんエスカレートするじゃん」
「うん、それは否定しない」
真顔で即答するので、むにーっと両方のほっぺをおもいっきり引き伸ばしてやった。
「いてててて…」
色男も台無しだっていうのに、高原は楽しそうに笑っている。
「なぁ、名取。いっぺんだけキスさせて?」
こつんとおでことおでこをくっつけて、いまにも鼻がぶつかりそうな距離で目を覗き込んでくる。
「今日の名取、なんか可愛すぎ。我慢できない。すげーキスしたい」
笑っているのに。冗談みたいに言ってるのに。えっちしてる最中なら可愛いなんて言葉も口癖みたいなものなのに。茶色いその瞳だけはひどく真剣で熱を帯びていて、それは私が見慣れたものとは全然違っていたから。
「……………いっぺんだけ、だからね」
どうしよう、こんな甘い瞳と甘い声の高原なんて、私は知らない。
急に胸が苦しくなって、私は目を閉じた。



離れるまでは「1回」。
そう言いたげに、高原はただ押しつけただけの唇をいつまでも離そうとはしなかった。目を閉じて、ベッドに横になったまま両手を繋いで、時折確かめるように唇を動かして、それでもけして離れたりしないように注意深く、幾度も柔らかく押しつけてくる。
食べられるようなキスも、セックスの動きを真似た濃厚なキスも何度もしてきたけれど、こんなキスはもしかしたらはじめてかもしれない。
触れ合っているたった一箇所で互いの全てを感じようとしている。
まるでファーストキスみたいに、初々しいキス。
こぼれる息が不自然に火照っているようで、それがなんだかとても恥ずかしいことのように思えて、いっそ息苦しいくらいだった。
高原の感じているもどかしさが、からめあった指先から、そして唇からも伝わってくる。
それを素直に嬉しいと思う気持ちと、そのもどかしさに一緒に乗って先へと流れていけない寂しさが、私の中でせめぎあっている。
このままだとよけいに困らせてしまうだけかもしれない。
そうとわかっていても、この拙いキスを終わらせてしまうのが惜しくて唇を離せない。だって、こんなキスはきっともうない。最初で最期に違いないから。
ただ触れ合っていたいと、それだけを伝え合うようなこんなもどかしいキスなど、私たちの間にはありえない。
ふと薄く瞼を開けたら、じっと覗き込んでいる高原の瞳にぶつかった。
いつからこうして、目を開けてたのだろう。絡まった視線は容易には解けない。長い睫。茶色の澄んだ瞳の奥に揺れているのは、にじみ出る熱とおなじくらいの静かな冷徹さ。
そうだ。先生にはなくて、高原だけが持っているものがひとつだけある。それはこの、見つめ、暴き、奥底まで解析しようとする目だ。
この目が、響く声が、内側に入ってきていつも私を動かす。ただ見つめ返しているだけですっと、心が吸い込まれそうになる。ふわふわ揺れていた気持ちがぴたりと縫いとめられる。そして標本にされた蝶のように、いつも私は全てを暴かれてしまう。
見下ろす目にあらゆる欲望をむき出しにされて、体だけではなく心ごと思考が溶けていく瞬間の恍惚―――。
自分が何を考えていたのか、気づいた時にはもう遅かった。
澄んだ色の瞳に囚われたまま、私の中でカチリと、なにかのスイッチが入る。
高原にもはっきりとそれが見えたはずだ。ざわり、と全身が総毛だった。
「…………っ!」
引力に無理やり逆らうように、体を引きはがした。ゆるく触れていただけの唇はたやすく離れてしまう。
「高原………っ」
どくどくと心臓がものすごい轟音でがなりたてている。自分に起きたことが、信じられない。どうしよう。何を言えばいいのか。なにを言いたいのか。わからない。なにもかもが一瞬で混乱する。ともすればわけのわからないことを口走ってしまいそうで、繋いでいた手を振り払い、言葉をかくすように口元を覆った。
「名取」
指先が、そっと頬に触れる。
呼ばれる名が振動になって私の何かを震わせる。触れられたところから、甘い痺れが全身を駆け巡っていく。ただ、目を合わせていただけ。ただそれだけなのに。
「ちがうの。わたし……っ」
「わかってる。落ち着いて。何もしないよ。約束だろ?」
「そんなつもりじゃ、ないの。違うの。ほんとよ。わたし……っ」
「知ってる。わかってるから。いまのは俺が試したんだ。だから落ち着いて」
自分に起きたことを理解できずにうろたえる私を再び両腕の中に閉じ込めて、高原が囁いた。
「ごめん。…………ごめん。俺も、不安だったんだ」
高原の言ってることが、全然わからない。何を試したというのか。何が不安だというのか。
「………なに……? どういうこと?」
高原は頭を横に振って、それ以上は答えなかった。ただ、ごめん、とだけ繰り返して、肩口に顔をうずめる。
「高原………?」
何度呼んでも、それ以上応えが返ってくることはなかった。
まるですがるように抱きしめてくる腕は緩むことはなく、ただゆるく湿った熱い吐息がくりかえし肩口をあたためる。やがて、肩に感じる高原の頭の重みや、触れ合った場所からじんわりと伝わってくる鼓動が、波立った気持ちを次第に落ち着かせていった。いつしか私も黙って目を閉じ、ただお互いの呼吸の音を聞いていた。
一体どれくらいそうしていただろう?
やがて高原の頭がかすかに動き、首筋に熱い吐息が当たった。
くすぐったさに思わず肩をすくめると同時に、
「三島に会ったんだろ?」
静かな声が耳のすぐそばで響いた。
それはあまりにも突然で予想外な質問だった。考えるより早く、自分の体がぎくりと強張るのが、わかった。
「なんの、話?」
口からはそんな言葉が漏れた。
高原はひとつため息をつくと、体を離して、私と真正面から目を合わせた。
「社会科準備室で見られたあとさ、三島と名取と2人だけで話ししたんだろ?」
質問の形を取ってはいたけれど、その口調はすでに起きた事実を確認しているに過ぎなかった。
「……どうして?」
「あれからずいぶん経つのに、三島はなにも言ってないからさ」
私はいまどんな顔をしているのだろう。どんな顔をしたらいいのだろう。
「いくら誘われたからって、三島が名取にしたことを考えれば、学校の上の奴等には言えない、ってのが正しいのかもしれない。でも、いつまでも俺にも名取にもだんまりのまんまってのはおかしいだろ」
とうにばれていた、という安堵感と、先に気づかれてしまった気まずさと。
ただ、今まで悩んでいたのが嘘みたいに、するりと言葉が唇から流れ出ていった。
「うん。会ったよ。それで、もう学校であんなことするな、って怒られた。でも、誰にも言わないから、安心しなさいって」
「どこで会った?」
「視聴覚室」
私の答えを聞いて、高原はやっぱり、と思い切り顔をしかめた。
「なに?」
「いつだったかな………三島に見られたあと、話つけなきゃと思って、俺、放課後職員室に行ったんだ。でも、いなくて。他の先生に聞いてもわからなくて、しょうがないからあちこち探したみたけどどこにも見当たらなくて。そのうちやっと職員室の前に戻ってきたのをみつけて、後ろから声をかけた。視聴覚室の鍵札持ってたから、一瞬ヘンだなって思ったんだ。その時」
「すごい顔で振り向いてたよ、三島。それでピンときた。三島が名取を呼び出す前に話をつけるつもりだったのに、先を越されたって」
「………どんな顔、してたの? 先生」
「俺たちを見つけた時と同じ、俺をいくら殺しても飽き足りないってツラしてた」
「……………」
私は何もいえず、ただ黙って、高原のシャツの布目に目を凝らしていた。
高原はしばらく何かを考えるように口をつぐんだまま、私の背中を撫でていた。
勘のいい高原のことだ。2人きりになった私たちに何が起きたのか、なぜ何も言わないままなのか―――その先生の態度と急に会いたがらなくなった私の様子から、とうに看破していたに違いない。
「名取は―――…」
一度そういいかけてから、口を閉じ、
「もしかしてさ、もう俺とは会わないつもりだった?」
ちょっとおどけた顔を作って、さっきのようにおでこをぶつけてきた。
「………どんな顔して高原に会えばいいのか、わかんなくなっちゃった」
「三島としたから?」
「ううん。そうじゃなくて………私、先生にひどいこと、しちゃったから」
「なに、そんなに手ひどくフッたの」
心底同情した声で言うので、思わず笑ってしまった。
「違うよ」
「んん? 三島を泣かせたから俺と会わない、ってこと? それってなんか変じゃねぇ?」
「もう、いいから、ちゃんと聞いてってば。だからね……なんていうのかな。先生と話したら、自分で思ってる以上に自分がどうしようもない女だっていうのがわかっちゃって………だから、なんか、合わす顔がないっていうか」
「うん」
「なんだろ、これって自己嫌悪、っていうのかな。自分で自分が嫌になっちゃって、もうなにがどうでもよくなっちゃって………だから、セックスどころじゃなくなっちゃった、のかも…」
くっついたままのおでこをずらして、高原の肩に顔をおしつけた。改めて口にしたら、ほんとうに―――今更のように自分のどうしようもなさに顔さえも見せられない気分だった。
「……男はさぁ、やっぱなりゆきでも好きな女抱いたら手放したくないって、思うもんだからさ」
ふたたび背中を撫でながら、高原は訥々とつぶやいた。
「うん」
「もしかしたら、三島が黙ってる見返りに、俺と会うなって条件を出してもおかしくない、って思ってたんだよな。セフレだったら、俺のかわりに自分がなるからって言い出すんじゃねーかなーって」
だから名取が会わない、って言い出したときはちょっと不安だった、と高原は照れたように笑って、おでこにキスを落とした。
「高原は、私のことかいかぶりすぎだと思う」
「なんで」
「だって、先生はきっとそんなに私のこと、好きじゃないよ」
「はぁ?」
間の抜けた声。きっととても驚いた顔をしているのだろう。
「もしかしたらちょっとは、好きでいてくれたこともあったかもしれないけど―――あんな事になっちゃったじゃない? きっと今頃は騙されたーって思ってるよ」
自分の放った言葉が、返り矢のように自分に刺さってくる。
でもあの時の先生はもっとずっと痛かったはずだ。聞きたくなかった言葉を、知りたくなかった現実を、あらためて嫌と言うほど思い知らされてしまったのだから。
「なんか、三島にひどいことでも、言われたのか?」
「何も―――ひどいことなんて何も、言われてないよ」
「じゃあなんでそう思う?」
静かに尋ねられて、言葉に詰まった。
高原はひとつため息をついて、体を起こした。
「悪い。さっき何にもしないって約束したけど撤回する。ちょっと体見せて」
え? と問う間もなく、腕が伸びてきて着ていたカットソーを剥ぎ取られていた。
「ちょっと、高原っ、何よ急にっ」
ブラだけになった上半身を庇っている間に、今度はジーンズのボタンをはずされる。抗っても暴れても、高原は躊躇しなかった。すばやくジッパーを下ろして足からジーンズを引き抜くと、あっという間に私は下着姿にされてしまっていた。
「名取、嘘ついてるだろ」
むき出しになった脛の向こうからまっすぐに見上げられて、その真摯な目つきに動けなくなる。約束が違う、と詰るために開いた唇からは、取り繕うような弱々しい言葉しか出てこなかった。
「………嘘、なんて……」
「嘘じゃないなら、逃げなくていい。ただ、本当にひどいことをされなかったか、この目で確かめたいだけだから」
温かい掌がと足首から膝、太ももへと時折ゆっくり揉むようにして上へとあがっていく。硬い表情とは裏腹のマッサージのような冷静な手つきに、強張っていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「……どうせなら、マッサージでもしてくれたらいいのに」
なんだかいたたまれなくて軽口を叩くと、高原はそういえばそうだな、と笑って、ブラとショーツ姿の私をひょいとベッドの上で裏返した。
「ではリクエストにお答えしてマッサージ承ります。お客さん、どこが辛いですか?」
私の腰あたりをまたいだ格好で、いつもの悪戯な声が背中に降ってくる。その変わり身の早さに正直舌を巻いた。
そして、とても高原らしい気遣いだとも思った。実際、顔を間近で見られたまま全身を検分されるなんて、今の私には到底耐えられない。
「あー、最近肩こりがひどいんで、そのへん念入りによろしくお願いします」
「はいはい。肩ですか。いやー、ホントに固いですねー」
いかにもマッサージ師のような口調に、つい笑ってしまう。そうしている間にも乾いた掌が、肩の辺りを確かめるように撫で、掴むようにもみ始めた。
慣れた手つきときっちりツボをおさえた力加減は玄人はだしで、私はあっというまに骨抜きにされていた。
「あー、きもちいいー。高原これでバイトしなよ。絶対儲かるよ〜」
「とーぜん。かーちゃんとねーちゃんにみっちり仕込まれたからなー。やっぱ女の人って肩凝りやすいのかね」
「……高原ってさぁ、ほんっとーに、女の人に頭あがらないんだねぇ」
「待てやコラ。揉んでもらってるのに言う台詞かそれ。しかもそんなしみじみと!」
力任せにぎゅっと指を押し込んでもそこはやはり痛気持ちイイ場所に違いないわけで。
「いやいや、お姉様方の仕込みのおかげでワタクシ極楽ですよ。ありがたや〜」
「ちくしょー。こうなったらトコトンやってやるっ。みてろよ、明日揉み返しに泣いてもしらないからなー!」
挑むような口調で動く指先は凝り固まった私の何もかもを心地よくほぐしてくれるようで、その気持ちよさについ全身の力を抜いて酔いしれていた。
そう、すっかり忘れてしまっていたのだ。自分の体に残っていた、言い訳しようも無い痕のことを。
「……あッ!」
丁寧に指圧していた腰まわりから、一気に下りて尻たぶをつよく押された瞬間、鈍く走った痛みに、思わず体が逃げた。
背後で高原の気配が止まった。そして、私が振り返るより早く、一挙動でショーツを膝まで引きずり下ろしてしまった。
「や……っ!」
思わず体をひねって逃れようとした背中を、腕一本で押さえ込まれる。高原が身を乗り出すために腰を浮かすと同時にベッドが軋み、温かい指先が、つ、と冷えた隆起の上をなぞった。
「ここだけ肌の色が黄色くなっている。………内出血のあとだ」
ぽつり、と確かめるように、低い声が降ってきた。
確かにまだ痛みは残っていた。でも、もう1週間近く経っているのに、まさかまだ目に見えるほど痕が残っていたとは思っていなかった。
「ここ、殴られたの?」
静か過ぎる声が、こわかった。私は目をぎゅっとつぶって、激しく首を横に降った。
「でも、三島だろ? ぶつけたって、こんな痕になる場所じゃない」
「殴られたりなんか、してない。それに、そんなの全然酷いことされたうちにはいらないよ」
高原に嘘は言えなかった。嘘をつくつもりもなかった。
「こんなあとが残るようなことされたのに?」
まだ記憶もなまなましい、何度も打たれた箇所に高原の掌を感じる。力をかけないよう注意してあてがわれているのが、かえって落ち着かない。
「だって、私から先生にお願いしたんだもの。私はいやらしい女だから、先生の気持ちにこたえられない淫乱だから、お仕置きして、って」
「………なんだってそんなこと」
「だって……、だって、そうでしょ? 私、わかってた。あの日、先生が私として、私にものすごく幻滅して、腹を立ててるって知ってた。高原の言うとおり、先生に好きって言われたよ? でも先生が好きだったのは真面目な学生の私で、ここにいるいやらしいことが我慢できない私なんかじゃない。先生はね、私があんなふうに誘う女だって信じたくないっていったの。淫乱だなんて信じられない、って。私が言ったことなんて信じたくないって。したがってるのは私なのに、先生はそんな私を見たくないって言うの。だから」
「名取」
焦った声とともに、高原の腕が私を無理やり引き起こそうとした。でもその腕を振りはらい、顔を枕に深くおしつけたまま叫んだ。
「……だから、言ったの。お仕置きして、って。先生がそうしたがってるって、知ってたから。そうしたらもっと先生が傷つくの知ってたから」
「だって許せなかった。私とセックスして、私の体でいったのに、いやらしい私を嫌う先生が許せなかった。先生に軽蔑されているのに欲しがらずにはいられない私も許せなかった。だから罰されればいいんだと思った。もちろん、そんなことなんかで許してもらえるわけないってわかってる。でも……っ」
指先が食い込むくらいきつく肩口を強く掴まれて引き起こされた。
「もういい。もうそれ以上言うな」
こんなに悲壮な顔の高原なんてみたことない。
「だって………っ」
「もう十分名取は痛い目にあってる。そうだろ? こんな痣になるなんて、一体どんだけ叩かれたんだよ」
あの日とおなじ疑問が、意識を掠める。なぜ高原が、こんなに辛そう顔をするんだろう。
「100回まで数えたけど、実際はもっと叩かれてた。痛かったよ。すごくすごく痛かったのに、私、いっぱい濡らして感じてた」
忘れもしない。あの肌を打つ熱さ。繰り返される痛み。そしてその中でどんどん膨らんでいった愉悦。
「どうしようもないなって、先生に言われたの。ホントにそうだよね。自分でもそう思ったよ。痛いのに、感じてるなんて。ひどいことされてホントは悦んでたなんて」
閉じ込めていた言葉が、記憶が、堰をきったようにいちどきにあふれ出す。
「知りたくなかったよ。自分がそんな人間だなんて、信じたくなかった。でも私すごく気持ちよくておかしくなりそうなくらい感じてた。先生が苦しみながら私を抱いてるってわかってたのに、それで私はもっともっと感じてた。私、やっぱりおかしいよ。こんなの普通じゃないよ。高原は、おかしくたっていいって言ってくれたけど、そんなふうに思えない。自分で自分が許せない。私に、高原にこんな風に優しくしてもらえる資格なんてない。なのに、どうして」
「名取!」
厳しい声が私の言葉を封じた。
けれどずっと私を苛んでいたものをただ言葉にして吐き出すだけでゼロに還すことなんてできやしない。叱責で閉じ込められた言葉はあっというまに涙と入れ替わって、私は子どもみたいにぼろぼろ泣きながら顔を伏せるしかなかった。
私が先生にしたことは、もう取り返しがつかない。その現実が胸に迫って、私を更に打ちのめす。
高原は大きく息を吐き出してから静かに私を抱き寄せ、あやす様に肩口に頭をもたれさせて言った。
「俺は優しくなんかないし、いつだって自分がしたいことしかしてない。だから名取がそんな風に思うことなんてない。しょっちゅう顔あわせてるんだから、それっくらいわかれよ」
「だって……っ」
高原の腕の中はいつも暖かくて優しい。だから、疑問を持つ余地なんてなかった。ごく自然に、当り前のように、それはいつでも私のために開かれていたから。
「高原は……っ」
「うん?」
「高原は、私に同情してくれてるの? 私のこと、したいの我慢できなくて、可哀想な女だと、思って……っ」
「名取!」
再び厳しい声が耳を打つ。
乾いた掌が強引に泣き顔を仰向かせた。あまりに見慣れた深い色の瞳がまっすぐに私を射る。
「いい加減にしないと怒るぞ」
ああそうか、これは怒ってる瞳なのか。
でも、怒られても、嫌われても、わからないものはどうしようもない。
「じゃあ、どう……して……っ」
涙で視界が曇るのが嫌で、ごしごしと涙を拭きながら、尋ねる。声はみっともないくらいにしわがれて、自分の声じゃないみたいだった。
高原はしばらく答えずに、ずっと私を見ていた。
泣いてる女の子の顔をそんなじろじろみてるなんてひどい。いつもなら出てくる強がりも、今だけは言えない。つぎつぎとこみ上げる嗚咽をこらえるだけで精一杯だ。
「同じだから」
不意に、熱く湿った息が濡れた頬に当たった。
「俺も名取と同じだ。浅ましい自分をどうにもできないのは、俺も同じなんだ」
きつく抱きしめられていた。暖かさより息苦しさが勝るくらい長い腕で締め付けられる。力はゆるむどころかどんどん強くなって、体中から軋む音がきこえそうだった。
「名取に同情なんてできるわけない。自分を哀れむなんて、俺には、できない」
だから、そんなふうに自分を責めないでくれ、とかすれた声で、高原は言った。
泣くだけ泣いて、しゃくりあげる声も収まってきた頃、ようやく高原の腕も緩んで労わるようなキスが額に落とされた。
「………きょうは、キスもダメって言ったのに」
この期に及んでそんなことを言うと、じゃあ、ダメついでにもっと、とそのまま唇を塞がれた。
ひとつ、ふたつ、と柔らかく押しつけられて、離れたかと思うと乾かないまま顎にとどまった雫を吸い取られる。優しい感触に思わず目を閉じると、また唇が重ねられた。
頬に添えられた掌がゆるく私の輪郭をさすり、冷えた肌に熱を移すように顎先から喉、首の後ろから背中へと流れていく。
「たかはら…」
何を言うかも思いつかないまま、ただ、今ここにいることを確かめるように目の前の人の名を呼ぶ。
「うん」
わかってる、と、続くはずもない次の言葉が口の中に閉じ込められる。
乾いた掌は背中をいくども優しくさすり、激昂しきったあとの体をなだめていく。
ぼんやりと見下ろす顔を見つめていたら、再び抱きしめられた。唇が、頬から首筋へと押し当てられ、指先がつい今さっきとは別の意図をにじませてわき腹へと動いていく。
いつのまにか慰撫から愛撫へと変化した唇に、心地よさより戸惑いを感じて思わず身じろぎした。
「や……。嫌。気持ちよく、しないで」
下着を半ば下ろされ、むき出しになっている下肢に伸びていこうとする高原の手を引きとめ、その骨ばっている指先に歯をたてた。
「気持ちよくなればなるほど、自分を嫌いになっちゃいそうな気がする…。気持ちよくなるのやだ」
困らせているのはわかっていても、流されてしまうのは嫌だった。いつもいつも裸になってあっというまに気持ちよくなって、何も考えられないまま終わってしまう。そのくりかえし。
「まったく………」
しょうがないな、と高原は大きくため息をついて、私の首筋に顔を伏せた。熱い吐息を敏感な肌に感じると同時に
「た、かはら……っ? あっ」
肩口をきつく噛まれていた。
ぎりぎりと歯におしつぶされた皮膚と肉が悲鳴をあげる。鋭い痛みが噛まれた場所から神経を伝ってきりきりと脳に届く。
痛い。でもそう声をあげることすら思いつかないまま、私は細く息を吐き出して、突き刺してくる痛みをこらえた。
「こないだ目の前で名取と三島がやってるのみても、焼きもちなんて全然感じなかったんだけどさ」
つぶやくような訥々とした声がすべりこんでくる。
「この痕つけたのが三島だと思うと、なんかすっげー悔しい。変だよな」
「………………」
「こういうのも嫉妬っていうのかな。三島が痕をつける前に、なんで俺が先にやっとかなかったんだろうって。名取に新しいことを教えるのは俺の役目のはずなのにって」
だから八つ当たりくらいさせろよ、と理不尽なことを言って、高原は私の肩から腕、胸元に、何度もきつく噛みついていくつもの歯型をつけた。いつもの甘噛みなんかとはまったくちがう、容赦ない痛みがキリキリと顔の近くではじける。
もしかしたらそれは、ただ私に痛みを与えるための口実に過ぎなかったのかもしれない。あるいは言葉どおりにはじめて高原がぶつけた理不尽かもしれない。でも、そのどちらでも、あるいはどちらでもなかろうが、そんなことはどうでもよかった。
皮膚や筋をつきぬけてきりきりと体の奥まで突き刺してくる痛みが、胸底で暴れてのたうつ黒々とした私の虚ろを埋める。
快楽から遠く隔たった澄んだ体の痛みに全てが飲み込まれていく。求める気持ちも、疎む気持ちも、捨てられない気持ちのなにもかもが。
あぁ、と、ため息とも苦痛ともつかぬ声をもらして静かに目を閉じた。
「……うれしい……」
いつかと同じように、そうつぶやいていた。高原は答えずに肩の丸い骨を噛む顎にただ力を込めた。
どうして高原はいつもいつもこんな風に、今の私に一番必要なものがわかってしまうのだろう。こっちは受け取るまでは全くそれと気づかないままだというのに。
肌が裂けるどころか、骨まで砕けてしまうかもしれないと思うほどの痛み。でも、足りない。やめてほしくない。つきあげる気持ちのまま、噛みしめた顎が緩むたびに、やめないで、もっとして、とうわごとのように繰り返していた。
歯先は肉や骨だけでなく腱にも食いこんでいて、このままずっと噛まれていたら、もしかしたら腕が使いものにならなくなってしまうかもしれない。
そんな考えが意識を掠めても、やめてほしくなかった。今この痛みから解放されることは堪えがたかった。
少しずつ場所を変えて、蚯蚓腫れのような歯型がいくつも残される。歯を離されるたびにむずかる私を、高原はこれ以上噛んだら肉を噛みちぎっちゃうだろ、とまるで子どもに言い聞かせるような口調で諌めた。
「それでもかまわないから噛んでよ。やめないでよ」
「そんなこと言ってると、もっと痛いことするぞ」
痛みから解放されているこの短い時間すら、なぜだかどうしようもないほど悲しくて。
「いいよ。痛くして。気持ちいいなんて絶対考えられないほど、うんと痛くして」
何が悲しいのかまったくわからなかったけれど、口をついて出た言葉がきっと全てを語っていた。
「本当に?」
不意に、低く押し殺した声が耳を打った。
高原の瞳が、いままで見たことも無いほど鋭い光を帯びていた。
答えられない私の目の前で、すうっと、眦が細められる。さらに低く、それなのに聞き逃すこともできない声が、私の体の中に入ってくる。
「本当に痛くしてほしい?」
私はこの瞳を知っている。
獲物を目の前にした肉食獣の瞳だ。
柔らかい肉を食い破って喰い尽くしたいと飢えている瞳だ。
本能的な恐怖を感じる一方で、それをねじ伏せるほどの激しい高揚感が私の意識を埋め尽くしていく。
突飛な考えかもしれないけれど、高原がまさに獣のように、どうしようもない私の肉を噛みちぎってそのまま腹に収めてくれるのだとしたら―――ありえない妄想に瞬時に全身の血が沸き立った。
「痛く、して。お願い」
胸の奥が深く軋んで、外には届かない悲鳴をあげている。
自分ではけして届かない、触れることができないその場所を、その手で暴いて、全てを引き裂いて、欲しい。