赤いくつ |
Written by : 愛良 |
◆ [13] 五個のあめ玉 ◆ |
ふ、と目を開けると、女の人が私を覗き込んでいた。 「あ、目が覚めた? 圭ちゃぁん、この子目が覚めたみたい」 女の人が振り返ってそう声を張り上げている。私はゆっくり体を起こした。頭が何だかぼんやりとしているのに、脳の一部は澄んだ様にクリアになっていて、何だか変な感じだった。 「おう、気が付いたか?」 煙草を吸いながら近づいて来たのは、上半身裸だった男だった。今は黒いTシャツを着ている。私は訳が分らないまま、曖昧に頷きながら周囲をぼんやり眺めた。さっき連れて来られたホテルの内装は変わらない。薄ぼんやりとしたライトが部屋を浮かび上がらせている。 「もう大丈夫だよ。酷い目に遭ったねぇ……あ、あたしはね、香織。かおりんって呼んでね」 女の人が私の背中を優しく撫でながら、にっこりと笑った。私は、その女の人と、圭ちゃんと呼ばれる男を交互に見比べながら、これから何が始まるのかと身構えた。 「……ぁ……怖がってるよ、この子……もぉ〜……圭ちゃん、ちょっと酷すぎるよ」 「う〜……あ〜……来てくれてほんっと、助かった、かおりん、この通り」 圭ちゃんと呼ばれる男が、かおりんと言う女性に両手を併せ拝むようにして頭を下げる。 「あの……」 ぼんやりとした頭で、私はそれだけ言うと、口を噤んだ。何を言えばいいか分からなかった。 「……覚えてるか?何があったとか」 圭ちゃんと呼ばれる男が、煙草を口にくわえたまま、私の顔を覗き込む様に言う。私はびくっとなりながら、身を引いてその顔をじっと見つめた。 「圭ちゃんっ!煙草っ!……顔近づけないの!酷い事したってちゃんと思ってる?」 かおりんという女の人が、圭ちゃんと呼ばれる男を叱りつけた。 「……いやぁ〜……お灸据えてやろうかと思っただけだって……」 圭ちゃんと呼ばれる男は渋々と言った感じで、私の側から離れ、ベッドから少し離れたソファへどすん、と腰を下ろした。 「女の子相手にセックスしといて、お灸じゃないでしょ。ほんっとにもぉ……」 「いや、それはホント、申し訳無いっす……近頃のガキはぁってさ。ちと腹が立っちまったモンで」 「大丈夫?……怖かったでしょう……どこも痛くない?」 かおりんという女の人は、私を案じてくれながらゆっくりと背中を撫で続けてくれた。 「ぁ……はい……痛くない……です」 「そう……良かった……」 柔らかく安堵の溜息をほぅっと漏らしたかおりんという女の人を私は、優しい雰囲気を称えた綺麗な女性だと思った。 「あの……」 「ん?」 「覚えてる様な……覚えてない様な……その……」 「君、気絶しちゃったんだよ」 圭ちゃんと呼ばれる男が、ソファで煙草をふかしながらそう言った。 「気絶……」 「その前に、訳分からないこと言いながら泣いて」 「泣いて……?」 薄ぼんやりと覚えているのは、激しい感情だけだった。自分の内側に溜まっていた物がとぐろを巻いて吹き出した様な感覚が残っている様な、そんな残滓がまだ私の心の内側をちくちくと苛んでいるような気がした。 「突然感じ始めたかと思うと、子供言葉に返って、その内会話が噛み合わなくなって……」 「圭ちゃんっ……」 圭ちゃんと呼ばれる男が話している最中、かおりんという女性がふるふると首を横に振ったので、話は途中で途切れた。 セックスの途中で、記憶が飛ぶ様な経験は始めてだった。今まではどんなことでも覚えていたのに、と思うと、何だか自分自身が怖い様な気がした。私はいつの間にか震えていた。最初から震えていたのかも知れないけれど、その時に初めて自分が震えていることに気付いたのかも知れない。思わず自分の体を抱きしめる様に肩を抱きすくめた。 「ね……あなた、未来ちゃんって言うんだってね……?」 こくん、と私は頷く。 「未来ちゃん……セックス初めてじゃなかったんだってね?」 もう一度こくん、と頷く。 「お金貰う為にセックスしたの……?」 こくん、とまた頷く。 「何か、欲しいものがあったの?それで?」 今度は首を横に振る。 「そうじゃなくて、お金が、欲しかったの……?」 こくん、と頷く。 「お小遣い、欲しかった……?」 私は、強く首を横に振った。かおりんは困った様に考え込んだかと思うと、 「興味半分で……セックスしてみたかった訳じゃないよね?」 と訊ねてきた。私はまたこくん、と頷いた。 「う〜ん……じゃあ、どうしてだろう……言いたくない?」 私は、その問いに無言のままでぼんやり爪の先を眺めていた。何だかもうどうでもいいような気がした。その内、撮影されたビデオは市場に出回るだろう。どこからか誰かがそれを見て、いずれ私だとバレるだろう。高校へもし行けたとしても、バレてしまえば何にもならない。居づらくなって中退して……その先は転がり落ちるだけなんだろう。 私は案外冷静に先のことを考えていた。所詮、保護者のいない未成年者が普通に生活していこうなんて……更に上を目指そうなんて、無理な話なのかな。親がいないだけで、子供は苦労を強いられる。別に私を捨てた親達を憎んではいなかった。恨んでもいなかった。そうするにはあまりに彼らの記憶が無さ過ぎた。状況を甘んじて受け入れるのに精一杯過ぎた。……何となく、俊樹の最近の苛立ちが理解出来る様な気がした。彼は絶望したのかも知れない。自分を取り巻く状況に。 「あの……御迷惑をおかけしました……もう大丈夫です……」 私はふらりとベッドからすり抜け、立ち上がった。 「え?あ……未来ちゃん……」 「あの……お金。下さい。」 私は真っ直ぐ圭ちゃんと呼ばれる男を見つめた。こうなったら、ビデオで稼ぐしか無いのかな、と思った。高校へ行くにしても行けないにしても、お金は必要だった。ちまちましたお金じゃなく、まとまったお金が。 圭ちゃんと呼ばれる男は、黙って私をじっと見据えた。私の目の奥の感情を探る様な瞳だった。先程の恐怖感がまた沸き上がってきそうになるのを、私はじっと堪えた。でも、何故他の男は平気なのに、彼に対してだけ恐怖感が沸くのか私には分からなかった。 圭ちゃんと呼ばれる男は、黙って鞄から封筒を取り出すと、私に差し出した。受け取ろうと手を伸ばすと、ふい、とそれを避け、 「……質問に答えたら渡してやる」 と言った。無言のまま、彼を見つめ返すと 「お前、初体験ていつだ?」 と訊ねてきた。 「圭ちゃんっ」 責める様に鋭くかおりんという女の人が叫ぶ。その声を無視して、圭ちゃんと呼ばれる男は私を見つめ、更に問いかける。 「おじさんって、誰の事だ?俺や、スタッフの事じゃなかったろ?誰に抱かれてた?初体験て、そのおじさんか?」 私は蒼白になっていたと思う。目の前がくらくらした。 「……お金……いいです……いりません……帰ります……」 「未来ちゃん、待って……」 「随分こなれた体してたぞ……おじさんに何度もヤラれたのか?いくつの時だ?虐待されてたんじゃないだろうな?」 ふらふらとドアへ歩いていた私は、ぴたっと足を止めた。児童虐待なのかな……おじさんは私を可愛がってくれたのに……おじさんは私を愛してくれたのに。 「未来ちゃん……ね、圭ちゃんが聞いた事言いたくなかったら言わなくていいから」 かおりんという女の人が、私の腕を掴み、ゆっくりとまたベッドの方まで引き戻す。その手はとても温かくて安心出来る手だと思った。女の人の手がこんなに柔らかくて気持ちがいいなんて、今まで知らなかった。 「震えてるね……大丈夫だよ。もう何も怖いことしないからね」 かおりんという女の人は私をベッドへ再び座らせ、ふわりと頭を抱きかかえて背中と頭を同時に撫で始めた。それはとても柔らかく、気持ちよく、いい匂いに包まれた様な感覚で、 思わず私はゆっくり目を閉じた。闇の中で甘い香りが漂い、濃密な安堵感が私を包んでいる様なその感じは、今まで感じたこともない様な優しい感じがした。 「ね……良かったら話してみて?……気が楽になるかも知れないよ……私達で良ければ、ね?」 とん、とん、と背中をリズムを取りながら叩くかおりんの胸に顔を押しつけると、ふんわり柔らかく弾力性のある感触が私の顔を覆った。とくん、とくん、と心臓の鼓動が聞こえる様な気がした。私は、この女の人は大丈夫かも知れない、と瞬間的に判断した。私を弾き出さない。私を拒絶しない。多分、私はずっと誰かに縋り付きたかったのかも知れない。 「……はっさい……」 「ん?」 「……8歳の時……初体験」 一瞬、かおりんという女の人と圭ちゃんと呼ばれる男が顔を見合わせたのが分かった。 「相手は?おじさん?」 こくん、と頷く。頬に、彼女の服が擦れる感触がした。その服さえ柔らかかった。 「おじさんって、親戚か何かか?」 ふるふると首を横に振る。しゅるしゅると耳元で彼女の服と自分の頬が擦れる音が響く。 「おじさんはおじさん……赤い靴買ってくれたおじさん……私、施設の子だから。親戚いないの」 ぎゅっと、強く抱きしめられた様な気がした。背中に押しつけられた掌が熱くて、制服越しにその熱さが肌に浸透してくる様な気がした。 「うわ……たまんねぇ……」 「そのおじさんと……して、未来ちゃんは気持ち良かった……?」 「最初……凄く痛くて……イヤだったけど……うん……気持ちよく……なった」 「そっか……そのおじさんは?未来ちゃんを引き取ってくれた人?」 小さく私は首を振る。 「おじさん、黙っておいでって……一緒に生活したけど……引き取ってくれたんじゃない」 「したけど?……今は?一緒に生活してないの?」 しゅるしゅると頬に服が擦れるのは何とも気持ちよかった。裸で触れ合うより、服を着てた方が気持ちいいのかも知れないと私はぼんやり思った。それとも、女の人が抱いてくれているからだろうか?それは初めての経験で、私は判断が出来なかった。 「おじさん……警察に捕まったから……」 「……」 「おじさん、黙って施設から私とあの子……連れてきて一緒に生活したから……それに、男の人も連れてきて……私にさせたから……私殴ったりしたから……警察に……」 「未来ちゃんに?……何をさせたの?あの子って?」 「あの子……名前なんて言ったかな……覚えてない……私の代わりなの……私がおっぱい膨らんで……毛が生えて生理来たから……もう未来ちゃんは愛せないよって……おじさん言って……あの子代わりに連れてきたの。私は金がかかるからって……男の人連れてきて……おじさんにしてたみたいに……」 かおりんという女の人と圭ちゃんと呼ばれる男は、もう何も言わなかった。ただ、抱きしめた腕が時々小刻みに震えているのは何となく分かった。熱い掌は心地良く、時々圭ちゃんと呼ばれる男が相槌を打ったり問いかけてくるのに答えて、私はとうとうと今までの経緯を話した。おじさんに連れて行かれたこと。おじさんと生活した日々のこと。おじさんが私を愛してくれたこと。私が成長したからおじさんが私を愛せなくなったこと。代わりに他の女の子を連れてきたこと。私には他の男を連れて来たこと。時々殴ったこと。警察が来たこと。施設を移されたこと。俊樹に取り入ったこと。小学生浪人したこと。中学生になって、成績が上がったこと。体育教師のこと。同級生の女の子のこと。陥れたこと。お金が無いから高校へ行けないと言われたこと。でも行きたいからお金を貯めようと思ったこと。痴漢のこと。売春のこと。 話はあっちに飛び、こっちに飛び、時間軸を前後して、とりとめもなかった。けれど、喋っていく内に頭の中はどんどんクリアになっていき、胸の内にとぐろを巻いていたどす黒い何かがゆっくり沈殿して行くのを感じていた。 喋ることで頭の中の色んな事が整理されてくる。今まで自分でも分からなかった「想い」が口から漏れて、その時初めてそうだったのかと分かったこともあった。 話し終えて、沈黙が続く中、ゆっくりと私はかおりんの腕から顔を上げた。ぽたっと水滴が頬に落ちてきて、えっと思って見上げると、かおりんが大粒の涙をぼろぼろ流しながら静かに泣いていた。かおりんの肩越しに、圭ちゃんが煙草を吸いながら、何とも言えないしかめ面をして、ふーっと大きく煙を吐き出しているところだった。 話し終えた私は既に冷静になっていたと思う。ちら、と壁の時計を見て、随分長い間喋っていた事に気付いた。 「香織……さん……あの……」 「ごめんね……未来ちゃん、ごめんね……」 私はどうして彼女が謝っているのかが理解出来なかった。 「あの……どうして謝るんですか……?」 「分かんない……何となく……謝らなくちゃって思ったの……ごめんね」 かおりんは更に私を強くぎゅっと抱きしめて、 「変な大人が多くて……未来ちゃんいっぱい傷ついて……ごめんね……ごめんねぇ……」 と謝り続けた。私はどうしたらいいか分からず、そのままかおりんの胸の中でそっと呼吸を続けていた。やがて、かおりんがぐすっと鼻を啜りながら、 「ごめんね。未来ちゃんの方が辛いのに、私が泣いちゃったら未来ちゃん泣けないよね」 とにっこり微笑んだ。その微笑みはとても美しくて、華やかな癖に儚げだった。 私は泣くつもりは全く無かったけれど、かおりんの優しい気持ちが何となく心地よくてくすぐったくて胸の辺りがほんわり温かくなった様な気持ちに驚いていた。鼻の奥がつんとして、頭が痺れる様な感じは産まれて初めてのことだった。 お母さんに抱かれるとしたらこんな感じかな……ふと、そんなことを思った。母と呼ぶにはかおりんはあまりに若すぎたけれど、女性に抱きしめられるのは初めてだったからかも知れない。それは甘く柔らかく優しく包み込む様な、甘美な感覚だった。 その日、結局私はお金を貰わなかった。 あのビデオが市場に出回るかも知れないという恐れもあったし、だとしたらお金は貰うべきだと確かに思っていたけれど、何となく受け取れなかった。その代わり、また逢いたい、もう一度逢って欲しい、とお願いした。 圭ちゃんは困った様に笑っていたけれど、じゃあ、このお金は預かっておく、と言っていた。かおりんは一緒にお買い物に行こう、と言ってくれた。私は何故彼らにもう一度逢いたいと思ったのか、何故そんなことを口走ってしまったのか、よく分からなかったけれど、学校や施設と言う場所で肩肘張って自分を演じてきた私を知らない誰かと、一緒に話したかったのかも知れない。 ホテルを出て施設へ帰る道すがら、頑なにお金を受け取らなかった私にかおりんがあめ玉を五つ程くれたのを頬張りながら、何だか無性に泣きそうな気分を甘く味わっていた。 |
|HOME|about|ROOM Top|bbs|link|
2002 Copyright AIRA , All Rights Reserved.