赤いくつ |
Written by : 愛良 |
◆ [16] 芽生え ◆ |
「あの日、どこ泊まったんだ?」 施設の廊下を歩いている時、俊樹が私の腕をぐい、と掴んだかと思うとそう訊ねてきた。 「……あの日?……どこだっていいじゃない」 「いいから答えろよ」 「なんで俊樹に言わなきゃいけないの?」 かおりんの家に泊めて貰った翌日、私はそのまま学校へ行った。圭ちゃんとかおりん、二人して学校まで車で送ってくれて、にこにこと校門の辺りをうろついてくれたもんだから、少しだけ目立ってしまった。だって、圭ちゃんはどう見ても怪しい古着屋のおやじっぽい感じにしか見えなかったし、その横に佇んでいるかおりんは露出度の高いミニスカートのワンピースなんか着てたから。圭ちゃんは普通だけど、かおりんは美人だから、ただでさえ目立つのに更にそんな姿だと目立って当然だと思う。あれは誰?って、教室に入ってから同級生達に結構訊ねられた。 それでも、施設にはちゃんと連絡してくれていたらしく、私は誰にも何も言われなかった。それから数日経っていたから、何故俊樹がそんな事をいきなり聞いて来たのか私には分からなかったし、そもそも私は俊樹とはここ数ヶ月口さえろくにきいてなかった。 「どこだよ」 腕を掴んでいる俊樹は、高校生になって更に背が伸び、逞しくなっていた。到底振り解ける様な力じゃない。目の奥に怒りに近い色を称えて、顔を間近に近付けながら脅迫めいた声で聞いてくる。 「関係ないでしょう」 最近の俊樹は感情を抑えることをしなくなっている様に見えた。高校はつまらないらしく、よくサボっているらしいという噂を耳にする。顔立ちの整っている彼は派手に女の子とも遊んでいるらしい。……が、全ては風の噂で、私には何の興味も無いことだった。 私は俊樹の怒気を含んだ瞳を睨み返した。その瞳には恐らく軽蔑に近い色が浮かんでいたと思う。高校へ行かないなどと言って感情を爆発させたクセに、そんなこと何も覚えていないかの様に高校へ進学した俊樹。私を傷付ける言葉を吐き出したクセに、私が話しかけなくなるとまるで私が傷付けたかの様に傷付いた表情をした俊樹。もう少し冷静で計算高く大人びていると思っていたのに、何とも子供じみている彼に私はもう利用価値すら感じていなかった。彼に頼らなくても、既に施設の中では私の為の居場所が自然と出来上がっているのだから。 「……まさか、男と一緒だったのか?」 「……だとしても、俊樹に、関係無い。……離して」 「いやだ」 「離して」 「いやだっ」 「…………大声出すわよ」 「……出せよ」 背が高くなった俊樹が面白そうに私の顔を見下して言う。出来ないと思っているのがありありと見て取れて、カチンと来る。 「いやぁぁぁぁぁっっっっっっっ」 私は構わず大声を上げた。ぱっと俊樹の手が腕から離れる。その瞳には怒りの色と共に、驚きと、少しだけ悲しげな色が浮かんでいた。 バタバタと施設の大人達が声のした方へ走ってくる音がする。 俊樹は黙ってその音の中、私を睨んでいた。私も彼を睨み返していた。 「どうしたの?」 女性職員が声を掛けてくる。俊樹はふい、と背を向けて歩き出そうとする。 「ゴ、ゴキブリが出たんです」 「……なんだ、脅かさないで」 「ごめんなさい」 安心した様に微笑みながら女性職員にたしなめられ、誤魔化すように苦笑いする俊樹の顔が見えた。私は彼の表情を見ず、彼女と一緒に俊樹から離れた。俊樹は追い掛けては来なかった。 その数日後、学校からの帰り道、春は賑わう桜並木からお寺へと続く小径を通り、お寺の境内の脇をすり抜けようとすると、そこに学生服を着た男と女が肩を組み濃厚な空気を発しながら寄り添っているのが見えた。普段施設の子供や職員くらいしか通らないその道は、人通りも少なく、境内にも人影を見ることは殆ど無かった。珍しいと思いつつ嫌悪感を露わに横目でその二人を見やりながら帰ろうとして、はっと気付いた。……学生服を着た男は、俊樹だった。相手の女の子は誰だか分からない。少し色を抜いた髪に赤いゴムで髪を止めた、安っぽい感じのする女だった。唇はピンクのリップでてらてらと光っていて、その唇がくすくすと笑っている。何だか不快感を催す様な感じだった。 不意に、俊樹がこちらに視線を送った。俊樹の視線と私の視線が絡まり合う。 私と視線を絡ませたまま、俊樹はにやりと笑うとゆっくりその女に顔を近付けていった。唇を吸い上げる下品な音が聞こえる様な気がした。 吐き気が沸き上がってくるのを感じて思わず口許を掌で覆う。……キタナイ……思わず私は心の中で二人を罵っていた。絡みついた俊樹の視線を思い出す。俊樹は、私を見ていた。間違いなく見ていた。なのに、女とキスをした。……いや、私と目が合ったからこそ、キスをした。……何のため? 何のためかは分からない。けれど、それが私の不快感を煽る事は確かだった。 最初はキスだけだった彼の見せつけは、徐々にエスカレートしていった。相手の女はいつも違っていた。キスの濃度も増し、ペッティングが加わり、ハッキリと愛撫の時もあった。彼の行為を見かける度に催していた吐き気は彼らの行為と共にエスカレートしていき、時には道端でげぇげぇと吐いた。汚らしいものを見せられて不快感が募った。俊樹は間違いなく私を待ち伏せし、見せつけようとしていた。だから、私も帰る道順を替えたり、時間をズラしたりしたのだけれど、それでも頻繁にそれを見かける様になっていた。 ある日お寺の境内の脇をすり抜けて帰る途中、微かな女の子の喘ぎ声らしきものが聞こえた。最初は悲鳴にも似たそれは、徐々に甘い色を帯びて、ハッキリと歓喜の声を上げていた。……またヤってる……そう思いながら、それでも今までと違ってハッキリと最中の声を聞いたのは始めての事で、「それ」と分かった途端いつも以上に不快感が襲ってきた。 「トシくぅん……ぁはっ……ゃん……人来ちゃう……」 「来たら……?コレ、抜くか?」 「やぁん……抜いちゃ……ゃん……」 「スケベだな……ほら、好きなんだろ、コレがっ」 「ああああぅぅんっ……はぁぅぅぅん……」 私は思わず耳を塞いだ。胸元がムカムカして、胃液が逆流してくる様だった。酸っぱい唾液が口いっぱいに広がる。駆け昇ってくる不快感に目眩がする様な気がした。 私は思わずその道から逃げ出した。何故、俊樹が私にそう言う場面を見せつけようとするのか。何故、今まで平気だったのにこんなにも「それ」に対して不快感が生まれてくるのか。何故、何故?何故…… 答えが出ないまま、私は口許を抑えて走り出していた。酸っぱい胃液が喉から飛び出そうと藻掻いている様な気がする。ムカムカとする身体を持て余しながら、私はとにかく走った。 「ぁっ……」 小石に躓く。その勢いで、喉元に漂っていた胃の中の物が逆流する。げぇぇぇぇ、とそこに吐瀉物をばらまいて、私は涙目になりながら道に蹲った。自分の汚物でスカートが汚れていたけれど、そんなことが気にならないくらい、今の不安定な自分が心細かった。 ……圭ちゃん…… 涙が溢れてきた。最近の私は何だかとてつもなく弱い。以前はもっと……そう、何も感じなかったのに。今は色んな事が私の肌をピリピリと突き刺して苛んでいる様な気がする。 ……圭ちゃん…… 優しく包み込む様な慈愛に満ちた声。それは、私に向けられたものでは無かったけれど、何故かその声で包み込まれたい衝動が突然突き上がってくる。 ……圭ちゃん…… ぼろぼろと涙がこぼれた。胸の辺りから胃液とは違う何かがせり上がってくる。ひっく、と一度喉から出てくると、それは止まらなくなった。 ……圭ちゃぁ……ん 私はわぁぁぁぁ、と大きな声を出して泣いた。しゃくり上げながら泣いた。何故泣いているのか自分ではよく分からなかったけれど、とにかく泣いた。 「あぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜っっ」 と叫びながら泣くと、頭の中が白くなる。 ……圭ちゃん、圭ちゃん……圭ちゃぁ〜んっっ…… 何故こんなにも今圭ちゃんが心を占めているのか分からなかった。ただ、呪文の様に心の中でその名を唱える事だけが重要な気がした。 「ぅっ……ひくっ……け……ちゃん……」 口に出してその名を呼んでみる。 「け……いちゃん……圭……ちゃん……ひくっ……圭ちゃん……圭ちゃんっ……」 初めて逢った時の圭ちゃんの、私を見ずに抱いたあの表情が浮かんでくる。哀しかった。切なかった。 「圭……ちゃん……圭ちゃぁぁぁん……」 かおりんにした様に抱いて欲しい。あんな風に優しく気遣いながら包み込んで欲しい。イッていいんだよ、未来……って。そう言って欲しい。 夕焼けで赤く染まった空の下で、私は泣いた。泣いて泣いて、泣き続けた。爽やかな風が涙に濡れた頬を優しく撫でるのさえ、悲しくて切なかった。 |
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