赤いくつ |
Written by : 愛良 |
◆ [19] 青い夏 ◆ |
季節は夏になっていた。受験で慌ただしい同級生の隙間を縫って歩く私に近寄ってくる友人など一人もいなかった。けれどそんなこと、私にはどうでもいいことだった。担任は公立へ行く方法と、私立で奨学金を貰いながら進学する方法を提示してくれた。どちらも学校の授業の出席と内申を重視するみたいで、ちゃんと学校へ来る様にと少しだけ注意された。まとわりつく蒸し暑い空気の中泳ぐ様に学校へ通う私は、違和感なく群れた魚の一匹として存在していたのだろうか。水族館の中で一方方向へ群れを作り泳いでいたまぐろを思い出す。 あの日、圭ちゃんとかおりんは結局遅く帰ってきた。二人は何気なくお土産のケーキなんぞをぶら下げていたけれど、二人の間に絡まる様なねっとりとした濃密な空気を感じ取った私は心臓がぎゅっと掌で握りしめられた様な気がした。間違いなく、二人はヤッて来ている、と思った。空々しく笑う圭ちゃんとかおりんが何だか恨めしかった。ああやっぱり、と言う気持ちと、どうして、と言う気持ちが混じり合った。 その日から私は圭ちゃんやかおりんの家にあるAVと言うモノを観まくった。とにかく吐かなければ連れて行って貰えるだろうという浅はかな考えからだった。最初の内は全てが醜くて汚らしくておぞましい行為としか感じられなかったそれも、徐々に感覚が麻痺して来たのか観るのも平気になっていった。 始めの頃は、かおりんも 「そんなの無理して観なくていいんだよ」 と言っていたけれど頑として聞かない私に諦めた様だった。何度もTVの前とトイレを往復する私をただ黙って見ていた。 その頃からかおりんは私に 「未来ちゃんは強いね」 という言葉を何回か言った様な記憶がある。私はその言葉を、吐いても吐いても克服するためにAVを見ているとかおりんが思っているから言ったのだと思っていた。 「未来ちゃんは強いよ」 「そうかな」 「うん……羨ましい」 そう言う時のかおりんは決まって少し儚げで哀しげだった。 「じゃあ、かおりんも強くなればいいじゃない」 「ん……私は……駄目。私は……弱いから」 私はそう言われる度にいつも苛立ちを覚えてそう答えていた。強いとか弱いとか私にはよく分からなかったしかおりんが私の何に対して「強い」と言っていたのかは分からなかったけれど、自分がなすべき事があるなら、それをすればいい。そんな単純な事をどうして「強い」とかおりんが言っているのか、私は考えようともしなかった。話はいつもそこで打ち切りになった。 圭ちゃんとかおりんがヤるのは、大抵かおりんに仕事があった夜だと言うことが何となく分かった。別に覗き見をして確認した訳じゃない。吐くより何より、自分がみっともなくて醜いと自己嫌悪に陥る方が嫌だったから覗く気もない。あの日以来、私がいる場所で二人が行った事は無かったから。ただ、二人の間に流れる濃密な空気がそれを告げていた。 寄り添う様に、慈しむ様に。圭ちゃんはかおりんを守っていた。その目が、掌が、私に向けられる事もたまにあったけれど、かおりんに対してと私に対してでは明らかに質が違うのだといつも痛感させられた。その度に、鼻の奥がつーんとして涙が瞳に浮いてくる。そのくせ、かおりんは圭ちゃんの傍にいて慈しんで貰いながらも、時々どこか遠くを見る様な目をしていた。何だか胸が苦しい。圭ちゃんを見る私。かおりんを見る圭ちゃん。そしてかおりんは遠い所を見る。どこにいても。部屋の中でも。壁を透視するかの様に、その向こう。かおりんの目は時々宙を彷徨った。 私達は表面上は何も変わらなく過ごした。時々かおりんの家に寄っては居着く様に数日そこで過ごして施設へ帰るのが私のパターンになっていた。圭ちゃんは色んな所へ私達を連れ出して、結局自分が一番はしゃいで一番楽しんで一番疲れていた。かおりんはそんな圭ちゃんに微笑みながらついて行く。断ったりはしないけれど、自分からすすんで行くことは無いのだと言うことが分かった。 何も変わらないのに何かが空回っていた。段々軋み始める歯車に、誰も気付かない振りをした。その頃にはもう、私はAVを見たところで吐かなくなっていた。全ての感覚をシャッターの様に降ろす。そうすると、目から入ってくる情報は脳をすり抜けてどこかへ流れていく。……いちいち全てを真っ向から受け入れていたから、吐いていたのかも知れない。 「ねぇ、この女優さんは本気で感じてるでしょ」 私がAVを観まくっていることは当然圭ちゃんも知っていた。 「ん?そうそう……相手がマジもんの恋人だからなぁ」 「そう……これはとても綺麗に見えるね」 真っ赤な顔をしながら喘ぐ女優の顔は乱れに乱れ、自分の映り具合などまったく考える余裕もなく腰を振っていた。端から見ればこういうのが一番みっともないと言うのは何となく分かったけれど、それはとても綺麗な行為に見えた。 「あぁ……綺麗だよ。こうやって、真っ向から相手の気持ちを受け止めてる女ってーのは綺麗だよな」 ぽん、と圭ちゃんが大きな掌で頭を叩いた。 「相手の気持ち?」 「うん。愛し合ってるから、身体だけの繋がりじゃなくて、心の繋がりも画面から滲み出て来てるんだろうなぁ。だから、二人とも綺麗に見えるんだと俺は思う」 「……心?」 「お互いを大事にして好きで愛してるって気持ち」 「……ふぅん……これ、売れたの?」 「あぁ、これは売れたなぁ。こういうノーマルなのが実は結構売れるんだよなぁ」 圭ちゃんは煙草をぷかりとふかしながら画面をぼんやり見つめていた。 「圭ちゃんは……かおりんに気持ちあげてるの?」 「はっ?」 ごぼっと言う噎せる音がして、次いでげほげほと咳をする圭ちゃん。 「うーん……まぁ、俺は抱く女全員に気持ちあげてるつもりだけどさ」 なんて言いながら、少し焦っている。 好きなんて感情は分からない。……けど、綺麗だと思う感情は分かる。綺麗なかおりん。綺麗な女優さん。綺麗な行為。綺麗な綺麗な、かおりんと圭ちゃんのセックス。 AVを観る度に二人の行為が頭をよぎる。あれ以上綺麗なモノなんか無いと思っていた。確かな繋がりが、圭ちゃんとかおりんの間にはある。それは言葉よりも確かなモノだと思った。 「……私もこんなセックスしたいなぁ」 ぼそりと呟く。 「ああ、未来もいつか自分の気持ちを渡せて、相手の気持ちを受け止められる相手が出来るさ」 ぽんぽん、と頭を叩く圭ちゃんの手はとても温かくて、だけど触れているのにその手はとても遠いと思った。 圭ちゃんの気持ちが欲しかった。 これが好きって感情なのかどうかは分からなかったけれど、圭ちゃんが私に気持ちをくれることは無いだろうと思った。……かおりんがいる限り。 「ね、現場連れてって。……もう吐かないし……お手伝いとかするよ」 「お前一応受験生だろ……そんなことしてる余裕あるのか?」 「バカにしないでよ……こう見えても成績いいのよ。平気平気」 学校の成績は多少落ちたとは言えまだまだトップクラスを保っていた。本気で勉強に励めば、すぐに首位奪回出来る自信はあった。 「じゃ、夏休みの間だけな」 「え〜〜〜〜」 「その後高校入ったら今度はいつでも連れてってやるからさ」 圭ちゃんはからからと大きな口を開けて笑った。……けれど、その言葉は結局叶えられなかった。 かおりんの白い喉がミネラルウォーターを流し込むにつれて艶めかしく揺れる。 夏休みに入って私は何度か現場へ連れて行って貰えた。他の女優さんの時もあったけれど、かおりんが主演するモノが一番マシに思えた。 「未来がイイって言うと結構イイ感じに仕上がるんだよなぁ」 と圭ちゃんがにやにや笑って言う。何故かは分からないけれど、何度か現場を見ている内に作品の良し悪しくらいは何となく分かるようになったからだと思う。 「ふぅ〜〜〜……で、未来ちゃん、私は少しマシ?それとも随分マシ?」 圭ちゃんの隣でさっき撮ったカメラを眺めながらかおりんが私に向かってにこりと微笑む。こういう時のかおりんは無敵だ。とても美しい。いつもの淡い感じが一切消えて、とても妖艶な女性になる。 「……とてもマシだよ、かおりん」 微笑み返しながらそう言うと、かおりんは満足げに笑って 「ありがと」 と言った。この笑顔に敵うものなんかいないだろう。 ……確かにかおりんは綺麗だった。けれど、胸の奥からどす黒い何かが湧いてくるのも確かだった。吐いていた頃と似たどす黒いモノが、口の中に酸っぱい唾液を充満させる。他の女優さんのを観ていても最近は全く平気なのに、かおりんだけは駄目だった。 あの言葉さえ言わなければ私は今でもこの傷を負わずに済んだのかと思うことがある。若さ故の暴言。一度口に出した言葉はどんなに取り返そうとしても掌の上からこぼれ落ちていく砂によく似ていて。鋭利な形のない刃はどれだけ彼らの胸の内を抉っていったのだろう。 「かおりんが結婚するってホント?」 カメラマンの藤岡さんがそう言った。私を撮影した時に私の足を押さえた人。圭ちゃんと一緒にAVを撮るスタッフ。どこか飄々としていて掴み所の無い人。藤岡さんと一緒に機材を運ぶお手伝いをしていた時に聞いた話。 「……ぇ?」 初耳だった私は自分の耳を疑った。きっと目を大きく見開いてぽかんとしていたのだろう、その表情を見て藤岡さんは 「あぁ……未来ちゃんも知らなかったんだ……かおりん、今度の撮影で引退するって聞いたからさぁ、何でかって圭ちゃんに聞いたら結婚するって」 「……うそ……私、聞いてない……」 藤岡さんは戸惑った様に 「あれ〜……未来ちゃんも聞いて無いんだ?……てことはまだ黙ってた方が良かったのかなぁ……」 ぽりぽりと頭を掻きながら悪気無さそうに笑う。何だかその笑顔が疫病神の様に見えた。 「……誰と?……圭……ちゃん?」 私は目の前が歪んで行きそうなのを感じながら、絞り出す様にその名を口にした。口にした途端、心臓がずきんと音を立てて痛んだ様な気がした。 「いやっ、それが違うらしいよ。かおりんの婚約者だって」 「婚約者?」 「元々AV女優になる前から婚約者がいたらしいんだよね、彼女……あ、俺が言ったってナイショにしといてね」 私は藤岡さんが最後の言葉を言い終わるか終わらないかの内に、そこから駆け出していた。結婚?婚約者?元から婚約者がいて、なんで圭ちゃんとずっと一緒にいたの?私は混乱する頭を走りながら何とか整理させたかった。かおりんがもし結婚するなら、圭ちゃんとだとどこかで思っていた自分に気が付いた。かおりんが邪魔な様でいて、圭ちゃんと一緒にならないかおりんに裏切られた様な気分になった。 ―だったら圭ちゃんはどうなるの?……― 私はどこへ走って行こうとしたんだろう。だったら圭ちゃんはどうなるんだろう。かおりんはずるい。圭ちゃんとずっと一緒にいてあれだけ優しくして貰っていたのに、圭ちゃんじゃない人の元へ行くのだ。圭ちゃんの気持ちはどうなるんだろう。かおりんはどうしてAV女優になったんだろう。 ―……どうして、私はこんなに腹が立ってるんだろう― 「おっ、未来、飲み物買って来てくれ」 のほほんとした表情で私を呼び止めた圭ちゃんに私は駆け寄って抱き付いた。 「おわっ……なっ……どうした?」 私が飛び込んだ拍子によろけながらも、抱きとめる圭ちゃんの手は大きくて温かくて気持ちよかった。 「……圭ちゃん、圭ちゃんっ」 「どしたよ、未来……」 「圭ちゃんっ……私とシよ?……ね、私とぉ……シよぉ……」 圭ちゃんを見上げて言った私は一体どんな表情をしていたんだろう。目を真ん丸にして驚いた顔で言葉も無く私を見つめる圭ちゃんの表情が少し可笑しい。 「シよって……おい、何をだよ」 「セックスしよっ……圭ちゃん、私とシようよ……」 圭ちゃんの顔が歪んで霞んでどこか遠いところにいる様に見えた。 「みーらーい。お前自分が何言ってんのか分かってるか?」 眉を歪めながら私の身体を自分から引きはがし、そう言う圭ちゃんの表情がよく分からない。朧気に嫌悪感を表している様なその顔が、私にはよく見えない。 「分かってる。……抱いてよぉ……圭ちゃん、かおりんにしたみたく、優しく抱いてよぉ……」 私は顔を激しく左右に振りながら、圭ちゃんの顔を見上げてそう叫ぶ様に言っていた。 「バカ。……未来を抱ける訳無いだろう」 「抱いたじゃない!最初に!私を抱いたっ!ねっ、……シようよ……私だったらかおりんみたくイカないなんて事もないっっ。圭ちゃんがくれる気持ちに応えるからっ」 「……未来……」 「かおりんみたいに……圭ちゃんがくれる気持ち裏切ったりしないっ。あんな……いい加減な……圭ちゃんの気持ち弄ぶような事しな……」 「未来っ」 少し怒気を含んだ圭ちゃんの声が低く耳に響いた。私は思わずびくっと肩を震わせ、言葉を飲み込む。 「……お前を抱く気は、無い。」 きっぱりと、拒絶する様な声。絶望を音にするとこんな感じかと思うくらい、突き放した声。 「どうせ抱くなら、お前みたいなお子様じゃない、イイオンナの方がいいからなぁ」 一瞬にしておどけたいつもの圭ちゃんに戻ってそう言ったけれど、一瞬前のあの突き放した感じはいつまでも私の耳の奥に残った。 「……イイオンナって誰?……ねぇ、かおりん?……かおりんってイイオンナ?淫乱なだけでしょ。誰とでもセックスさせる人でしょ。婚約者がいるのに、圭ちゃんともセックスしてさ。それで平気な顔してるなんて、さすがAV女優だよね。自分の欲に忠実なだけじゃないっ。あれがイイオンナなんだ?」 「未来っ」 たしなめる様に低く抑えた圭ちゃんの声が響く。怒気を含んでいる。拒絶しようとしている。……けれど、止まらなかった。自分ではこの感情の波をコントロール出来なかった。 「ズルイよ。かおりんはズルイ。圭ちゃんに守って貰いながら、今度は別の男の方に行くの?いいよね。そんな楽な人生無いんじゃないの?好きな事して生きて行って、飽きたら結婚するんだ?」 「未来……もうやめろ。それ以上言っても自分を貶めるだけだぞ」 「貶める?自分を?……悪いけど私、かおりんよりも落ちてるなんて思わないよ。あんな人サイテー」 ふと気付くと、圭ちゃんは私を見て無かった。その視線を追って振り向く。……私の背後には、怒っている様な哀しんでいる様な……けれどどちらとも違っていて結果的に無表情になってしまっている様な顔をして立っているかおりんがいた。 「かお……りん……」 「撮影。……時間押してるでしょ。早くしないと」 無機質な声。無表情な顔。それだけ言うと、かおりんは口の端だけ挙げて何とも言えない微笑みをたたえたまま踵を返して戻って行った。その表情は今までに見たどのかおりんよりもぞっとするほど綺麗だった。 圭ちゃんは無言で私の傍をすり抜けて現場へ戻っていく。……私はとても現場へ戻る気になれなくて、そのままそこから離れた。 それが、かおりんを見た最後になった。 |
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