赤いくつ
Written by : 愛良
[20] 止まった時計


 煙がくゆらいで空へと昇っていく。煌々と照る眩しい太陽に吸い込まれる様に。じんわりと肌から汗が噴き出し、まとわりつく蒸し暑い空気が陽炎をくゆらせている。
「……ほれ」
圭ちゃんが紙袋に入った一本のビデオテープを渡してくれた。
「……これ……?」
「マスターテープだ。お前撮ったヤツの。……処分するなり何なり、好きにすればいい」
「売らなかった……の……?」
「売れるかよ……犯罪モンだぞ」
「そっか」
黒いスーツに身を包んだ圭ちゃんは、暑いにも関わらず一筋の汗さえ出してはいなかった。腕章が腕を動かす度にかさかさと音を立てる。
何だか随分久しぶりに圭ちゃんと喋った様な気がした。
「……あっけないモンだな……人間なんて」
圭ちゃんがスーツの内ポケットから煙草を取り出してそう呟きながら火を点けた。ふぅっと吐き出した煙は、溜息を誤魔化す為のものだったのかも知れない。
「ついこないだまで……一緒に笑ってたのになぁ……」
誰に言うでもなくそう呟いて、また煙を吐き出す。そうして溜息を飲み込んで。涙を飲み込んで。
 私は何も言えなかった。言える訳がなかった。
人はいつまでも「そこ」にいるのだと信じていた。疑っていなかった。明日と言う日や明後日と言う日が誰にでも公平に訪れるのだと、無意識に思っていた。



 かおりんが死んだ。

 誰もが事故だったと言う。歩道に飛び出した幼児を助けようとして車に轢かれた、と。幼児は幸いにも体重が軽くて軽傷で済んだそうだけど、かおりんは頭を強く打ったらしく意識不明の重体になって、そのまま帰らぬ人となった。

 けれど私は事故だったとは思っていない。多分圭ちゃんも思っていない。

かおりんは心の底では無自覚に自殺願望があった様な気がする。いつ死んでもいい様な、刹那的な雰囲気があった。それがかおりんを儚い印象にさせていた。……そんな気がする。

「未来ちゃんは強いね」

かおりんが言った言葉が何度も頭の中でリフレインする。かおりんが言う強さってこういう事だったのかも知れないと思う。……生命力。

「……俺もそろそろ潮時、かな……」
圭ちゃんが太陽に吸い込まれる煙をぼんやり見つめながらそう呟いた。
「もう……撮らないの?」
「ああ……足洗って……田舎にでも帰るかな……」
圭ちゃんの田舎がどこなのか……そう言えば私は知らなかった。かおりんの田舎がどこだったのか。今日初めて知った。御両親の哀しみ。そして婚約者って人の顔。……その中で所詮私達は赤の他人で、取るに足らない関係性だったことを改めて思い知らされる。いつの間にかかおりんと近しい間柄だと思い込んでいた自分に気付いて打ちのめされてしまう。
 圭ちゃんは既に私を見ていなかった。途方に暮れる様な表情はどこか疲れて見えた。
「圭ちゃん……かおりんの事、好きだったんでしょ?」
口から滑り出た言葉はくゆらいだ煙と一緒に太陽に吸い込まれて行く。
「…………お前も好きだっただろう?」
暫く間が空いてそう答えた圭ちゃんの気持ちを私は計り知る事なんて出来ない。

 ぽっかりと穴が空いてしまった。

 もう誰にも埋められない穴だと思った。こんなにも大きく占領された穴を私はどうしたらいいんだろう。きっと圭ちゃんの心もこんな風に空いた穴を持て余しているに違いないと思うと、私はこれ以上何も言えなかった。
 最後に言った言葉と、最期に見たかおりんの何とも言えない微笑みを思い出す。ぞっとするほど美しいかおりんの顔が瞼に焼き付いている。全てを諦めた様な微笑みだった様な気もする。私を切り捨てる為の微笑みだった様な気もする。……その真意はもう聞けない。取り返しの付かない傷をかおりんに与えたまま、もう此の世からいなくなったんだと今更ながら気付く。
「……また、逢える……?」
陽炎の様に揺らめいた呟きは、少し震えていた。
「……いや……もう逢わないだろうな……」
圭ちゃんはそう言うと、ぽんと私の頭を大きな掌で叩いた。かおりんの生前もしてくれていた様な、優しさに満ちた大きな温かい手。
 何となくそんな予感がした。かおりんにもう逢えないって事は、圭ちゃんとももう二度と逢えないって事だと。二人は一つだった。私の中では。どちらかが欠けてもいけない。二人同時に出会った。そして、二人同時に去っていくんだって予感があった。

 ……きっと圭ちゃんは私を責めている。そんな気もした。決して私を許さない、重い澱が圭ちゃんの中に静かに沈んでいて、私を突き放しているのだと思った。かおりんを傷付けた罪。圭ちゃんとかおりんを引き裂いた罪。お門違いとは言い切れない私の罪を圭ちゃんは飲み込んでいる。
「……じゃ、元気でな……イイオンナになれよ」
軽く手を挙げて背中を向けた圭ちゃんの背中は思った以上におじさんだった。初めてスーツを着ているところを見たせいだったのかも知れない。それとも哀しみをこうやって飲み込んで年齢を重ねて来たのが滲み出ていたのかも知れない。傾きかけた太陽が圭ちゃんの影を長くかたどる。やがて景色は赤く染まる。……私は動けなかった。涙も出なかった。……そんな自分がとても冷徹で血の通わない人間の様に思えた。



 それからの数日間は記憶が途絶えている。何をしていたのか。何を考えていたのか。まるでかおりんが私の記憶ごと天国へ持っていってしまったかの様に、何も覚えていない。ただ、時々ふと気付くとかおりんが住んでいたマンションの前に立っていた事が時々あった。もう誰もいない部屋。夕暮れ時に明かりの灯らないその部屋はしんと静まりかえっていてそれが何だか不思議な気持ちがした。
 もうかおりんに逢えないなんて信じられなかった。どこへ探しに出掛けたとしても、例え地球の裏側へ行ったとしても、かおりんにはもう二度と、絶対に、逢うことなんて出来ないと言うのが実感として湧いてこない。今にもあの窓の明かりが灯って、そこには温かい匂いがして、圭ちゃんと私とかおりんと、笑いながらくだらないゲームに興じたり、テレビを見ながら容赦ない突っ込みを入れられるものだと思っていた。
 ……かおりん。
私はまだ、かおりんに伝えてない言葉があったのに。……私はまだ、言わなきゃならない一言を言ってはいないのに。



 季節が巡る。もの凄いスピードで。なのに私を取り囲む薄い空気だけが時間に取り残されたままの様な気がした。置いてけぼりを喰らう。何だか、私は今という時間の空間から、自分の周囲を取り囲む空気分だけ切り取られて違う時空からその様子を眺めているだけ、そんな感じだった。私が関与出来ない容赦ない大きな流れが何もかもを押し流して、私はそれを見つめることしか出来ない。目に眩しい緑の樹木がその緑を深くし、やがて赤く染まっていく。空は濃紺を称え、白い雲とのコントラストが美しかったのに、いつの間にか空は高くなり、薄青の柔らかい陽光を降らせている。夏が過ぎ、秋になり、冬と呼ばれる季節が来ても。私の時間は止まったままだった。
 きっと、かおりんや圭ちゃんが突然ひょっこり私の目に前に現れ「おい、未来、ゲーセン行こうぜ〜」と言われた途端に動き出す時計。私の中にはそんな時計が内蔵されている。もう二度と動かない時計。人が死ぬ、ってことは、取り残された者って言うのは、そんな錘を胸に抱えて、いつかまた時計を進めて行かなくちゃいけないんだろうか。
 何だかまだ信じられなかった。
……だって、私はかおりんが死んだ所も見ちゃいない。
実はどこかで生きていて、私の言葉に腹を立てたかおりんが私から自然と離れる為に企てた嘘だと思った。だってほら、圭ちゃんだって私の目の前から連れて行ってしまったんだもの。
 不思議と以前ほど、圭ちゃんを求める気持ちは既になかった。かおりんと圭ちゃんはセット販売されていた置物の様だった。片一方が欠けるとアンバランスで置いておけない置物。かおりんがいたからこそ、私は圭ちゃんを欲したんだなぁと今では思う。
 
 卑怯者。

 今でもかおりんに対するこの気持ちは拭いきれない。最期まで卑怯者だった。最期まで。綺麗で美しくて。……勝ち逃げした卑怯者。

 「未来ちゃんは強いね……」
と言ったかおりんは確かに弱かった。けど、私では到底得られないそこはかとした淡さや儚さを備えていた。それを武器にしていたでしょう?かおりん。違うとは言わせない。その武器で圭ちゃんを手に入れた。婚約者もいながら、圭ちゃんの気持ちを縛り付け、自らではなく、圭ちゃんの方から手を差し出させたのでしょう?
 到底敵うはずもない。かおりんは大人だった。ズルさも賢さも。

 マンションはいつしか新しい人が住み始めた。ぼんやりと見上げた窓に灯る明かりは懐かしさを称え、私の思い出を否応なく蘇らせた。いつしかそれが苦しくて、私はマンションへ通うのを辞めた。まだかおりんの死を現実感無く思っている自分と、現実として受け止め始めている自分の狭間で、私はどうしようもなく途方に暮れた。



 全寮制の女子校へ進学しないかと担任から言われたのは、木々の葉も散り落ちた初冬の頃だった。先方から授業料免除で構わないと言われたそうだ。全国模試の成績を見ての事だった。することが無くなった私は、ただ黙々と勉強だけをしていた。それしかする事が無かった。パズルを解く様に解答を書き込む試験は、私は嫌いじゃなかった。かおりんの事や圭ちゃんの事を考えるよりも簡単に答えが得られるそれは、動かない時計の中で唯一単純明快で楽しいと思える事だったから。
 模試では全国で50位以内に入っていた。ほんの数点の違いだけで、順番が何十番も変わるその成績を私は信じちゃいなかったけれど、目に見える成果を欲しがる人だっているんだとその時分かった。
 まだ新設同然の学校だけれど、だからこそ色んな実績を欲しがっていると担任は言った。スポーツでの実績。勉強での実績。そして、有名大学への進学率を上げる。それが私の役目だと言われた。
「もしも受験して受かれば、その先の授業料も見てくれるそうだ……悪い話じゃないだろう?」
担任の笑顔はどこか嫌らしい感じがした。それでも私はその話を受けた。全寮制だから施設から出ることが出来る。それもせいせいする話だった。

 やがて木枯らしの舞う冬が過ぎる。何の感慨もないままに卒業式を迎え、私は施設を出た。お別れ会とかいうパーティみたいなものを開いてくれたけれど、それすらも何の感慨も無かった。俊樹とはあれ以来一言も口を利いていない。彼もまた、私と会話をする事を諦めた様だった。
 私の周りを取り巻く全てのモノが慌ただしく変化しているのが妙に可笑しかった。私はまだ、あの夏に取り残されているのに。まだ、あの抜ける様に青い空の下で立ち尽くしたままだと言うのに。
 透明なカプセルに押し込まれて、何に触れることもなく、感情が動くことも無く、私はこの変化を無感情に受け止めた。



 季節が巡る。それは一瞬の出来事の様だった。
ただ機械的に日々を過ごした。私はいつの間にか笑わなくなっていた。もうあの頃の笑顔は出来ないと思った。涙は相変わらず出ない。誰が私の前から去っていっても、私は何も変わらない。ただ、ここにいて、ただ、生きている。大事だと思っていたものは、いつか掌からこぼれ落ちる。実は、そう言ったもの全ては大事なものだという錯覚なんだと思った。

 淡い春の日射しに、気が付けば見知らぬ講堂の中、少女達のざわめきと共に私はいた。それもまた、流れ行く記憶の一端にしかならないのだと思った。







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