赤いくつ |
Written by : 愛良 |
◆ [21] 閉ざされた庭 ◆ |
「修道院のようだと思わない?」 風になびく少しウェーブがかった少し亜麻色の髪が綺麗だと思った。高く澄んだ空の下、その姿は凛として強く、日の光を浴びて聳えている……そんな印象だった。 「息が詰まりそう……みんな、よくこんなところに押し込められてじっとしていられると思わなくて?」 彼女はさも当然の如く私の隣に座り、風に乱れた髪を手ぐしで整えて校庭から見える森に目をやった。 ……森と読んでいるその緑豊かな場所は、この学校の理事が持っている山だった。切り崩した山の中腹にその厳かで排他的な学校は建っていた。 「……あなた、いつもここで本を読んでいらっしゃるのね」 彼女は森から私へ視線を移してそう言った。 「……あら、凄い。原書、読んでらっしゃるのね」 好奇心に満ちた声が鈴のように転がって私の耳へ届く。 「……どこかに留学なさっていたの?……それとも?」 そよぐ風が柔らかな彼女の髪の毛を弄ぶ。初夏の匂いを含んだそれは、柔らかで女の子らしい彼女のほのかな香りを運んで鼻腔をくすぐる。 「……勉強の為、です……」 私は原書に目を落としたまま、呟くようにそう答えた。 ……また、夏が来る。 私は酷く無口になっていたと思う。あの夏以来。……人との関わりを極力避けていた様な気もする。高校に入ってからその傾向は更に顕著になり、私は一人でぼんやりする事の方が多くなっていた。 その方が気が楽だった。 胸に空いた風穴は今でも埋まっている様な気がしない。相変わらず、私は薄い空気に包まれて、そこだけが取り残されたような奇妙な感じでいる。濃縮された時間に縛られて、私はまだそこから抜け出せていないのだろうか。経ったはずの時間の経過が私にはよく解らなかった。私は何故、ここでこんな風にしているのかすら、時々解らなくなる。 機械的に物を食べ、機械的に勉強をし、機械的に眠る。……それが今の私の生活リズムだった。時間があるとこうして外の空気に触れる。……それだけが私に時間の経過を伝えてくれる物だと思った。 少し湿気と熱気を含んだ風が頬を撫でる度に、ちりちりと胸の奥が焼け焦げる。圭ちゃんの手を思い出す。かおりんの香りを思い出す。そろそろ一年も経ってしまうのが嘘の様にその記憶はあまりに鮮明で、そしてまた戸惑う。 くい、と首が不自然に曲がるのを感じた。気付けば目の前に彼女の瞳が私を射抜くように見つめていた。 「……あなた、人と喋る時は、人の目を見て話すものよ」 顎に手を掛けた彼女が私の首を無理に自分に向けたのだと気付くまで、少し時間が必要だった。 強い目。真っ直ぐな目。抜けるように白い白目の部分。それに反して黒く黒く、吸い込まれる程黒く見える瞳孔。ガラス玉に移った自分の顔を覗き込む様に、私は反射的に彼女の瞳の中にいる自分を見つめながら、 「……勉強の為、です」 と、再度そう答えた。……こうやって、人の顔を見たのは随分久しぶりだと思った。 彼女はちらりと私の胸元のバッチを一瞥したかと思うと、納得した様に頷いた。 「特待生でいらっしゃるのね。……道理で。」 くすりと微笑む様に彼女の声は転がった。……そう言う彼女も、同じバッチを胸元に付けている。 「宜しければ、今度ゆっくりお話致しましょう?……週末にでもお部屋にいらして……?」 彼女はすっと立ち上がると、自分の名前も部屋の場所さえも何も告げず、私の目に颯爽と歩く後ろ姿だけを焼き付けた。 私は思わず、笑みをこぼした。それすらも随分久しぶりだと思った。使わなかった頬の筋肉が、唇の端をぎこちなく持ち上げる。彼女のその柔らかな物腰と、それに反する自信の様な物が……この学校の誰もが自分を知っている……彼女の如何にもそう言いたげな態度が……何だか甘酸っぱいほどの懐かしさを感じさせたからかも知れない。その懐かしい感じが何故したのか自分でも全く解らないまま、ぎこちなく持ち上がった頬の筋肉を掌で包んだ。 だったら、すぐに彼女が誰か解るわ。……私は彼女の姿が校舎に消えゆくのをぼんやり見つめながら、彼女に興味を持ち始めている自分に気が付いた。 閉ざされた去年の夏以来。カチッと何かのスイッチが入った音が、微かにした様な気がした。 厳かなる寄宿学校は、その理念とは裏腹に内情は知れていた。良妻賢母となるべく教育されるべき構内及び寮内では、見栄とプライドが跋扈している。特待生、と言うシステムのせいかも知れないけれど、そのお陰で私はある意味保護されているのだなと思うと、何だか変な気分になる。 どこの私立校でも同じなのか、それともこの学校が顕著なのか。寄付金というもので経営を成り立たせているからか、その寄付金が多かった生徒に対しては特別な扱いがなされていた。寮部屋は一室に二人入る事になっているが、特待生は一人一室。しかも部屋の広さは明らかに特別寮の方が広い。門限等の規制も甘く、掃除や色々な当番などを免除されている。……つまり、上流家庭に家事などをこなす能力は必要ないってことだ。使用人が身のまわり全てをやってくれるのが当然なのだから。 それは、奇妙なことに授業料免除の私にも特待生と名が付いた事で免除された。学校の将来を担った生徒と言う意味合いも含まれていたのかも知れない。授業料を免除されて入学した生徒は他にもいて、私達は一般性とから羨望と軽蔑が複雑に入り交じった視線に晒された。 「あなた達は私達のお陰でこの学校に来れたのだから感謝することね」 寄付金を多く寄付した生徒の中には、こういう事を言って憚らない人も結構いた。中には、授業料免除で入学した特待生をまるで使用人か使い走りの様に扱う人もいたけれど、私にそれを言ってくる人は幸いにも今のところいなかった。 全てが平穏だった。時間が止まってしまったかの様な、現世から取り残された寄宿舎で、少女達は笑いさざめく。その中に渦巻く様々な感情さえ、私には関係のないことだと思った。 ……一人を除いて。 彼女の名前や素性は案外すぐに知ることが出来た。一学年上の彼女の名は、領家沙也香と言った。元々、華族の出で、世が世ならお姫様の家柄に産まれたと言うのも何となく頷ける。……彼女のあの気品の様なものは、産まれながらにして備えられていたものなのかも知れない。 彼女は、非常に勉学に長けていた。家柄も良かった。誰しもが一目置いていた。理事長でさえ、どうやらそうらしいところを見ると、相当の寄付金を援助したに違いない。彼女は特待生の中でも飛び抜けて環境の良い特別寮に入っていた。彼女が歩けば、生徒の視線はそこに集まる。彼女が振り向けば、世界は彼女中心になる……そんな感じだった。……何故、彼女が自分の素性を最初に言わなかったか……確かに、相当の自信に裏付けされた現象だと私は窓から校庭を歩く彼女を見かけてふと、そう思ったことがあった。 ……どちらにしても、私には関係のないこと…… 誰も私に関与しない場所に……私は居たかった。誰かに関わりを持つことで、自分が惨めになったり醜くなったりするのがイヤだった。……その点で言えば、この世界はとても快適だった。狭い狭い、小さな学校という社会。その中で誰が君臨しようと、私は憧れもしなければ焦がれもしない。ただ、薄いガラスに隔てられた向こうで、それを淡々と眺めていられればそれでいい。 「お前、アッホだなぁ、何言ってんだぁ?正気か?」 ……圭ちゃんなら、今の私を見てきっとこう言うかも知れない。 「未来ちゃんてば、そんなの勿体ない〜〜〜」 かおりんなら、こう言うかも知れない。 彼らの声は非常に鮮明に、いつでも簡単に、私の脳裏をよぎっては消えていく。そして突然に、もう逢えないのだと言う事実が現実として私の心臓を抉る。……涙は出てこない。ただ、抉り取られた筈の心臓がバクバク激しく鼓動して、私を孤独へ突き落とす。 だから、もう誰とも関わりを持ちたくないの…… 「阿呆、人間、別れがあるから出会いがあるんだよ」 圭ちゃんの声が耳の奥、鮮明に聞こえては消えていく。一瞬後に思い出そうとしても、最早手遅れな位、その名残を噛み締めようとすればするほど、その声は薄れていく。 「未来ちゃん、そんな弱いこと言っちゃダメ」 ……でもね、かおりん。……私は強いとか弱いとか解らない。……でもね、かおりん。……もう、疲れたの……。 「……週末、お忙しかったの……?」 夜半過ぎ、消灯まで後一時間足らずと言うところで、部屋をノックする音が聞こえた。部屋に来客が有ること自体珍しいことで……でも、私はそれが誰だか知っていた。 「……お誘いしたのに、おいでにならなかったでしょう?」 領家沙也香。……彼女は優雅に、そして当然の様に私の部屋に足を踏み入れてきた。私の意向は一切尋ねずに。……けれど、それに対して不快を感じないその動作は、やっぱり彼女がそれなりの気品を備えているからなのかも知れない。 「……ご冗談かと思って」 備え付けのベッドに腰を降ろす彼女を、立ったまま見つめ返しながら、私はそう答えた。 「あら……私、冗談は言わないわ……本気で、お誘いしたのよ?」 「……あなたの部屋へお邪魔したいと思っている人は、沢山いますよ」 「沢山の方を招きたいのではなくて、私はあなたを招きたいの」 真っ直ぐな瞳が私を真正面から捕らえる。少し潤んで、誘い込む様な目だ、と思った。 「何故……と聞くのは無粋ですか」 「ええ……とても無粋だわ……」 彼女はゆるやかに微笑む。唇の端を上げ、その綺麗な輪郭を更に美しく。 「……ただ、あなたに興味があったから……では、いけないかしら?」 最早、笑顔と言う言葉そのものの表情をしながら、彼女は私を見つめた。どこか、ねっとりとした絡みつくようなその笑顔は、ぞくぞくと私の肌に鳥肌を立たせた。 「……何故あなたが私に?」 「……あなたが、魅力的だから……よ」 ベッドに腰を下ろしていた彼女が手を伸ばす。立ったままの私の手首を掴む。そして、引き寄せる。その顔は少し紅潮している様な気がした。……私はこの顔を知っている、と思った。 |
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